【往復メール1】 神村→大倉
大倉さん
こんにちは。
さてさっそく一通目のメールです。
先日の大倉さんのソロ「ブルー・ガール」(8/20 d−倉庫)を見て思ったことから、始めてみます。
5月に拝見した「明るさの淵」(テルプシコール)から3ヶ月経ってのソロでしたが、全然別の種類の踊りに見えました。
5月のは、舞踏という山が後方にどーんとそびえていて、 それに連ねるようにして、これまでの稽古とか追ってきた内的な感覚の堆積の上に、 現在の踊りをさらに積み重ねていくようなすごみみたいなものがありました。
今回のは、山登りを最初から何度もやり直しているようなソロでした。
始まったときからぐらぐらしていて、入っていきたい感覚の入り口を捕まえたと思ってもまたすぐ逃がしてしまって、
またやり直し、というトライアルに見えました。
だから、見る方も、踊りに没頭して見るというより、 後方にそびえている山を一応視界に入れながら、歩き出して転んでまた足を踏み出して、 という繰り返しを観察するという感じでした。
得たい感覚に肉薄する覚悟よりも、そこからできるだけ距離を取っていても それを見失わないという覚悟みたいなものを、感じました。
そういう種類の腹のくくり方をする大倉さんの踊りは今まで見たことがなかったので、すごく意外な感じがしたし、 どうしてそういう方向に行ったのだろうと思っていました。
こないだお話ししたときに、5月のソロの反省から、 今回のは決意表明みたいな確固としたものを全て取り払ったという話を聞いて、
腑に落ちたと同時に、そこのところ、もうちょっと詳しく聞きたいなと思いました。
つまり大倉さんの問題解決の仕方についてです。
ソロのときの問題点を書き出していったとのことでしたが、実際どういう問題点が出てきたんでしょうか?
書き出すときも、自分の内的な感覚を頼りに思い出して記述するのでしょうか?
あと、こないだのソロでは中性的な衣装を選んだとおっしゃってましたが、 それでも、「中性的な人」というよりは「女性がボーイッシュな格好をしている」という印象がありました。
大倉さんの踊りには、常に女性性という要素が抜きがたくある感じがします。
普段の大倉さんはどちらかというとどすが効いてるというか、腹がすわっている感じなので、
舞台だとなんだか印象が逆転するのがおもしろいですね。
そういえば、大倉さんにとって人前で踊るのと誰もいないところで一人で踊るのでは、どういう違いがありますか?
踊っているとき、観客をどういう風に感じていますか?
見ている印象から言えば、大倉さんは観客の視線を招き入れて 自分のベクトルを強化するのに協力させている、という感じがします。
自分がもっと内に入り込むための助走距離を取るために、外側に観客の視線を想定してその力を利用しているというか。
私はというと、自分の内側に籠もるのを中断するために、 観客の視線に同調して外側から自分を見たり、壁や床から自分を見たり、
ということをしているようです。
現在いる場所から自分を切り離さないために、自分の内的な感覚は持続させずに切り捨てていく、というような感覚です。
舞台で観客の視線にさらされるのは私にとって本当に恐怖で、でもその不安定な状態が結局一番おもしろく、 それを薄めたくないと思っているのです。
あまりまとまりがないですが、
ひとまずこの辺で終わりにします。
うまくつながるといいですが。
それでは、ご返信お待ちしています。
神村
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【往復メール1】 大倉→神村
神村さん
もちろん、私は、5月からさらに歩を進めた新作にしたかったです。
5月の『明るさの淵』は、主題となる感覚を軸に稽古を重ね構成し、 チラシも衣裳も照明も音響も会場も10年以上にわたる繋がりのある方々と場所でした。 たくさんの方への気持ちと環境に支えられたことで実現できました。
8月の『ブルー・ガール』は、それとは全く逆。
初めての会場、初対面のスタッフ、照明、音響の方と直前の数回の打ち合わせのみでむかえる舞台でした。
意識の面でまず一番大切にしたことは、初めての場やスタッフの方々とどれだけ心地よく円滑にコミュニケートできるかでした。
そのことはなによりも、良いコンディションで舞台に立てること、舞台全体の空気が良くなることに繋がります。
踊りは即興です。初めてだらけの状況では即興でしか生まれてこない踊 りに委ねることが一番良いと思いましたから。
『ブルー・ガール』というタイトルの意味は、「その日、舞台上に現れた舞踏体の名前」です。
一回性です。
神村さんの受けた印象の違いについては、先ほど触れたように、
構成したものと
即興に委ねたもの
それぞれの持ち味なのでしょう。
大倉の即興舞踏が、神村さんの目にはそのように見えたというのは興味深いです。
> 今回のは、山登りを最初から何度もやり直しているようなソロでした。
> 始まったときからぐらぐらしていて、入っていきたい感覚の入り口を
> 捕まえたと思ってもまたすぐ逃がして
入っていきたい入り口にはすでに最初から入っていて、ずっとある踊りの状態に入っています。
ほんとうに舞台上でぐらぐらして入り口をすぐ逃してしまう状態では踊りは成立しません。
舞台からどのような印象を受けたとしても、踊りの状態に入っている中 でのことです。
例えば、最初からぐらぐらして見えるのは、「脱力系」の踊りをしていたんです。
それは、特に冒頭では、自分の内側も外側も固まらせないようにするため。
> またやり直し、というトライアルに見えました。
とか
> 歩き出して転んでまた足を踏み出して、という繰り返し
このように見えたのは、舞台上の私自身も、次にこのからだがどこに向かうのかを知らないので、 一挙手一投足に新鮮に「へえ」ってずっとびっくりしていたからではないでしょうか。
冒頭の立ち位置と、中盤の転換の場所以外決めていなかったので。
どの瞬間をとっても、はじめてのことで、さっきのことはもう忘れてる。そんな感じです。
トライアルと思ってやってなかったです。トライアル公演という企画の場ならそれでもいいんです。
でも、そうじゃないなら、トライアルは稽古でやるもので、 舞台でそういう積み重ねをしてきた自分の姿はみせないようにしたいです。
だから、トライアルという言葉が感じられた部分があるということは、 自分自身が気付いて変えないといけないところがあるということですね。
> そういう種類の腹のくくり方をする大倉さんの踊りは今まで見たこと
> がなかったので、すごく意外な感じがしたし、どうしてそういう方向
> に行ったのだろうと思っていました。
今までも、こういうことはやっていましたが、
ここまで腹をくくって、自分のソロで成立できたのは、やはり5月の公演の二日間と、 その後、自分自身と向き合う時間があったからです。
> つまり大倉さんの問題解決の仕方についてです。
> ソロのときの問題点を書き出していったとのことでしたが、実際どう
> いう問題点が出てきたんでしょうか?
> 書き出すときも、自分の内的な感覚を頼りに思い出して記述するので
> しょうか?
まず、私は「問題を『解決』しよう」としません。
公演は結果。今までの自分自身の生きてきたこと、生き方、物の見方、考え方、感じ方、全ての結果。
そのことに関しては良いとか悪いとかにとらわれないように。
自分のそのときどきの感情や情緒に流されないように、冷徹に見る視点 を持つんです。
結果には必ず原因があります。だから、現れた結果の原因を観るんです。
そして、その原因から自分自身に気付き、理解するということ。
自分が変われば起こる現象が変わりますから。
自分で解決しようとか、変えようとか、無理にがんばらなくても。
私は、5月からここまでの間の自問自答の日々の中で「反省」っていう言葉は、もう使わないようにしようと思いました。
気付き、理解し、変わること。そういうことです。
どのような結果であったとしても、
それは自分の内面や生き方と切り離した踊りの技術ではない。
これは今回だけのことではなく、舞踏をはじめてから今までずっとそう思っています。
今までの自分の生き方、意識の在り方、あらゆる人との関わり方、生活しているなかで起こる出来事、 見聞きした事など全てのことに自分がどのように感じ、反応し、行動してきたか。
どのように人と繋がりを持って来たのかどうかです。
問題点を書き出すときは、自分の内的な感覚も感情も人から言われた言葉も 舞台の記録写真や映像を見て自分で客観的にもみるし、 技術の側面も見直します。今回は稽古中の映像も見直したし、他にもこれはと思う事はともかく全て。
自分で思いつく考えつくありとあらゆる角度で書き出しました。
『明るさの淵』の公演から気付いたことは、
公演のテーマが、まだまだ自分の気持ちや感情が先行した理想であって、 今の自分自身の生き方や、人やあらゆる他者への思いや繋がりの現実とはズレがあったことです。
自分自身の意識と、実際の生き方(他者との繋がりを含めて)と、 もっともっと自分を超えた大きな意識の存在との間にズレがなく、 いつもスウッと繋がっていられることが、これからの大きな目標です。
そうしてみると、『明るさの淵』は、個人としての自分の理想や思いが強かった。
それで、自然と歩んだ先が
> 5月のソロの反省から、今回のは決意表明みたいな確固としたものを全て取り払った
ということになったわけです。「大倉個人の決意表明を取り払った」というほうが適当でしょうか。
そして即興。そうすることで生まれてくるのは、個人の意志を超えているもっと大きなもの。
そのエネルギーに教えてもらいたかった。 個人の決意では出逢えないものに出逢い、触れたかったし、委ねたかった。どこまでいけるでしょうか、って。
それが、さっきも言った「自分の意識と、実際の生き方(他者との繋がりを含めて)と、 個人の自分を超えた大きな意識」が繋がる境地にいきたいです、ここから第一歩です。
本番近づいた頃に、新聞で、70代の人の川柳だったんですけど
「決意せず 宣言もせず さりげなく」というのを読みました。
私はわりと、こういう言葉に魅かれます。
衣装のイメージについては、
中性的とか中世的とかですね。演出の一部です。
特定のイメージにならないように、ちょっと「?」が、衣裳にはあったほうがいいでしょう。
女性が男性的な装いをすることで、女性的な内面が感じられるっていうこともあるでしょう。
衣裳は自己演出。内面の表現でもある。照明、音、舞台美術と同じくとても大切なものだと思います。
観客の側から見れば、その衣裳を着ている間は、ずっと、踊り手のからだと踊りと同時に、絶対に見続けているもの。
舞台の一部、踊りの一部、からだの一部、踊りを一緒に創ってくれる。衣裳から踊りを教わることもよくあります。
5月のソロで衣裳を創ってくれた友達が言っていた「衣裳といっしょに 育つ」という言葉が好きです。
『ブルー・ガール』では、『色・女性』この二つの要素を、出さないようにしました。
このタイトルで青い服の女の人が舞台にでてきたら、トゥーマッチ!!!でしょ(笑)
大倉のセンス、感性的にはそれはNO!です(笑)。
それで、今回は衣裳の色もモノトーンにしました。
モノクロームであることで、より、色彩がイメージされることもあるじゃないですか、写真でも。
まあ、今回の演出です。
> そういえば、大倉さんにとって人前で踊るのと誰もいないところで一
> 人で踊るのでは、どういう違いがありますか?
> 踊っているとき、観客をどういう風に感じていますか?
自分の踊りがどのような状態に入っているかどうかで違いますからいちがいには言えません。
舞台も自分のからだも観客のからだも、 とにかくそこにある全部の人や物が境界線がなくなって同じ粒子になって広がっている感覚。 全体が見えている、自分の姿もみえている、舞台奥の壁の向こうまでも見えるような…。
っていうときはかなりいい状態ですよね。
これは、神村さんが求めてる感覚じゃないですか?
でも、これも、稽古場だけで身につくことではないですよね。
今までどのように、人と繋がり、関わり、感じてきたか、他者のことを想ってきたかとか。
だから、稽古や技術だけでどうこうしようとしたことはありません。
本番で、いい状態でお客さんとの関係を持てなかったら、公演終わった後、たくさん、いろんな人と飲みにいきます、私。
もっと、この場を楽しくできることないかな、とか、心地よく感じてもらえる気配りできることないかな、ってアンテナ立てて。 そういうことが自分を育ててくれてます。
一人では生きられないです。
一人で踊るときって、ソロの稽古しているときとか。からだの使い方の研究してるときとかでしょうか?
そういうときは、自分の作業に没頭してるのでしょうね。
でも、一人で稽古しているときでも、稽古場の皆、家族、たくさんの友達、公演のスタッフの方々、 公演を楽しみに観に来てくれる方がいてくれることへの感謝や喜びの気持ちが支えてくれているから、できる。
> 自分がもっと内に入り込むための助走距離を取るために、外側に観客
> の視線を想定してその力を利用しているというか。
全くこういうことを頭で考えてやった事は、ないです。だから、これがどういう意味なのかがわからないです。
> 私はというと、自分の内側に籠もるのを中断するために、観客の視線
> に同調して外側から自分を見たり、壁や床から自分を見たり、
> ということをしているようです。
> 現在いる場所から自分を切り離さないために、自分の内的な感覚は持
> 続させずに切り捨てていく、というような感覚です。
> 舞台で観客の視線にさらされるのは私にとって本当に恐怖で、でもそ
> の不安定な状態が結局一番おもしろく、それを薄めたくないと思って
> いるのです。
それにしても、神村さんのこの言葉。
踊りがいい状態になっているときは、結果としてこの感覚に近くなって
いるのではないかと思います。
私は、先にそれをやろうとしません。
内側が加熱して燃焼すれば、自ずから事が起こり、踊りが生まれるから。
神村さんは、大倉のメールを受けて、
2つのソロがなぜ、神村さんにはこのように見え、違ったものとして受け取られているのか、 ご自身の作舞や振り付けのことと繋げながらお話を聞かせてもらえますか?
それから、
> 私はというと、自分の内側に籠もるのを中断するために、観客の視線
> に同調して外側から自分を見たり、壁や床から自分を見たり、
> ということをしているようです。
> 現在いる場所から自分を切り離さないために、自分の内的な感覚は持
> 続させずに切り捨てていく、というような感覚です。
> 舞台で観客の視線にさらされるのは私にとって本当に恐怖で、でもそ
> の不安定な状態が結局一番おもしろく、それを薄めたくないと思って
> いるのです。
この感覚が、神村さんの感性の質感や生地なのではないかと思います。 大倉の場合は、踊りの状態に入ったときこの感覚に近くなり、この感覚と意識の持続というか、とぎらせずに繋がっている中で、 踊りが展開されているように思います(言葉で説明しづらい感覚なのですが…)。
神村さんは、この感覚そのものをダイレクトに振り付けや構成や、自分のダンスであらわそうとしているのでしょうか?
大倉
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【往復メール2】 神村→大倉
大倉さん
こんにちは。
返信ありがとうございます。
さて、2往復目ですね。
いきなり余談ですが、こないだ、左足をひねってしまって捻挫しました。もう腫れは引いてきましたが、
怪我すると、何だか全身が疲れますね。年取ってきたからそう感じるのかもしれないけど・・。 治癒するために足首にエネルギーを全部持って行かれてる感じがして、ぼんやりします。 頭使って考えるのに実は全身を使っているんだな、とそういうとき改めて思います。
即興で踊る、ということについて、ちょっと思ったことを書きますね。
基本的に大倉さんは即興で踊られると思いますが、即興で踊るということが私はとにかく苦手です。 苦手というかそもそも向いていないというか。何かしなくてはという義務感のようなものに襲われて、 舞台に身を置くということに集中できなくなってしまうのです。
だから振付として動きを決めるか、動きで追いかけたい目標をかなりがっちり決めます。 そうした方が逆に、自分の内的な感覚に集中できるのです。振付を踊るときは大体において、 決まったその動きをどれだけ分断できるか、どれだけ予想できない状態に身をおけるか、ということに集中します。 例えば、決まった次の動きとは別の動きを自分の中で想定して、動く直前でそれを裏切るとか、準備することをやめたら動くとか。 カンパニー作品のときも、そういう指示を出します。
大倉さんも書いていたように、いちいち動きにびっくりしたい、のです。
ついでに言うと、書くこととか話すことでも同じように即興に苦手意識があります。
その場でとっさに生み出すものに整合性を与えるということが、自分にできると思えない。
このメールだってかなり切り貼りしながら書いています。
一気に書くことはほんとにできなくて、断片を書き散らして、それを構成しなおして、ようやくまとまった形になってきます。
でもそうやって結果的にすっきり整理できても、 それは、論理的な文章とはこういう書き方だと学校で教わったやり方に従っているだけで、
自分が個人的に納得できる論の進め方は、もう少しずれたところにあるのではないかな、といつも思います。
その感覚はそのまま、作品を作るときも課題に感じていることでもあるわけですが。
作品を明確な形に落とし込みたいという欲求はあるけど、 どうやったらもっと一般的に「論理的」なところから離れていけるのだろうと考えます。 自分の中でリアリティーをもって成立してる論理的とは言えない「論理」、道筋のほうをもっと選べるようになりたい。
そしてそのためにはやっぱり、身体がこっちだという声に付いていけるように日々の稽古や思考が必要なんだろうと思います。
大倉さんの踊りは、私が形として作品をすっきりさせるために切り捨てたりはしょったりしてしまっている微細なところを、
丹念に拾ってつなげていっているように思えます。
私が、固まりをごろんごろんと切って置いていくような踊りだとすれば、 大倉さんのは、一本の糸で縫って進んでいくような感じですね。
>舞台も自分のからだも観客のからだも、とにかくそこにある全部の人や 物が境界線がなくなって
>同じ粒子になって広がっている感覚。全体が見えている、自分の姿もみえている、舞台奥の壁の向
>こうまでも見える。っていうときはかなりいいですよね。
>これは、神村さんが求めてる感覚じゃないですか?
うん、そうです。
私は、意識をどんどん分散させていって、それが動き続けている結果、 自分を含めた空間の全体像が浮かび上がるというような感覚です。 自分の比重がどんどん軽くなって、周りにあるものに結果的に溶け込んでいられるような感じ。
いただいた質問ですが、
>2つのソロがなぜ、神村さんにはこのように見え、違ったものとして受け取られているのか、ご自身の
>作舞や振り付けのことと繋げながら教えてもらえますか?
2つのソロの間の違いを見つけようとすると、こじつけみたいになる感じがするので、
「ブルー・ガール」を見て思ったことを、もう一回書いてみます。
8月のソロは、動きとしてはどんどん展開していく印象だったのですが、 次の方向に狙いをすます時の身体の静けさを強く感じました。 動きの中というよりその隙間に、大倉さんの向かいたい方向を読み取ったように思います。
動きをコントロールの届かないところに手放して、ぐらぐらしているんだけど、 それを許容する腹の据わり方があって、その両立をうらやましく思いました。
何となく、5月のソロの時のような、内的な確信のど真ん中を行くものの続きをイメージしていたので、意外だったのです。
時間としては短かったですが(30分くらい?)、 いい感触が来るまで待つための時間のかけ方が、見た後も最終的には記憶に残りました。
次もどうなっていくのか気になる、変化する予感をはらんだものでした。
(自分のこととつながってなかったですね、すみません。)
それから、
> 私はというと、自分の内側に籠もるのを中断するために、観客の視線
> に同調して外側から自分を見たり、壁や床から自分を見たり、
> ということをしているようです。
> 現在いる場所から自分を切り離さないために、自分の内的な感覚は持
> 続させずに切り捨てていく、というような感覚です。
> 舞台で観客の視線にさらされるのは私にとって本当に恐怖で、でもそ
> の不安定な状態が結局一番おもしろく、それを薄めたくないと思って
> いるのです。
>このあたりが、神村さんの感性の質感や生地なのではないかと思います。大倉は、踊りの状態に
>入ったとき結果としてこういう感覚になります。神村さんは、その感覚そのものをダイレクトに振り
>付けや構成や、自分のダンスであらわそうとしているのでしょうか?
大倉さんは結果としてこういう状態になる、というのが面白いですね。
不安定な状態、ある関係が持続しない状態を作るというのは、構成の上でも考えます。 動きと動きの間になるべく脈絡がないように並べるとか。 カンパニー作品でも同じですが、一つのシーンの中ではそれを意識していても、 それをつなげて構成するときには、安全なやり方を選んでしまうこともまだ多いかもしれない。
なんだかメール進めるにつれて、大倉さんと神村は壁一枚はさんだ表と裏にいるような感じになってきましたね。
大倉さんに見えている向こう側の風景が垣間見えてくるかんじです。
それでは、暑さでぐだぐだしながら返信お待ちしております。
神村
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【往復メール2】 大倉→神村
神村さん
こんばんは。捻挫、大丈夫ですか?
暑さに耐えるのにも体力消耗してますから、残りのエネルギー足首にいったら、それはもう脳まで来ないかも… でもそれは、早く治そうとして体が全身のバランスをとってくれているのですよね。
前回の、神村さんへの質問の答えは、今回頂いたメールの全体を通じて、その答えが浮かんでくるようでした。 感覚的なことなので、言葉にしきれないことがあって当然。 でも、やはり、言葉はその言葉を発した人の、その時点の理解力が伝わってくるものだから、 目玉と脳だけでなく、全身で言葉から伝わって来るものを感じ取るように意識することが大切なのでしょうね。
それには、どんどん自分の先入観を手放して行く事が大切ですね。 「〜でなければならない、こうあるべきだ」っていう考えをどんどん手放していけばいくほど生きやすくなってきますね。
こうして神村さんと言葉を交わせる機会は素晴らしいです。
「違うところをみつけようとする」ところから始めずに、「感じようとする、共感しようとする」ところから始めたら良いですよね。 お互いに、まず共感しようとする懐があって、その中に、「違い」というよりも、「それぞれの生地」を感じていけるような。
ちなみに、私は文章はほとんど切り貼りしなくて、一気に書いたり、メールしたりします。
なんていうか、感覚的には背中の方からかな…言葉がうわーっとでてくる速度が速すぎるときが、たまにあります。 それを文字にするのに追い掛けるのがいっぱいいっぱいで、手がついていかないんじゃないかっていう感じ。 全力疾走で追い掛けて行くような感覚。で、ともかく、追い掛けながらポンポントントン書いて行く。 そうすると一時間とか二時間とかすぐに過ぎちゃうんですが、書き終わった後、 マラソンでもしたかな…というぐらい全身の体力を消耗しています。
この体験を詩人の人に話したら、詩も全身で書くのよ、というような答えをもらったことがあります。
でも、BALで神村さんの批評を書いたときには、切り貼りして構成したり、論理的って言う事を意識しました。 感情を抜きながらというか。
神村さんは踊りもそうやって創っているのかな。。。
あの批評文は私にとっては、ものすごい大変な作業で、何回か徹夜して… 夜中の二時頃わーわーいいながら、もう二度と文章なんて書くもんか!とかって部屋を転がったり(笑)。
それまでの自分が使った事のない回路をたくさんたくさん使いました。 ほんとに書かせていただけて良かった。たくさんのことをまなびました。
BALのお互いの批評を読んでくださった方はわかると思いますが、 神村さんと大倉は、文章もこれまた対照的で、そのままお互いの踊りの特徴が出ているんですよね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて
神村さんからのメールで、大倉の8月のソロ『ブルー・ガール』を観てのこの言葉
>次の方向に狙いをすます時の身体の静けさを強く感じました。動きの中というよりその隙間に、
>大倉さんの向かいたい方向を読み取ったように思います。
>いい感触が来るまで待つための時間のかけ方
これは、前回の往復メール1のときに、私は、
>>『 自分がもっと内に入り込むための助走距離を取るために、
>>外側に観客の視線を想定してその力を利用しているというか。
>全くこういうことを頭で考えてやった事は、ないです。だから、これがどういう意味なのかがわからないです。』
と答えたのですが、あとで、気がつきました。確かに8月のソロではこういう状態でした。
「いい感触が来るまで待つための時間…次の方向に狙いをすます時の、動きの中というよりその隙間の意識の状態」は、
自分の意志だけに動きを選択させないで、観客席から頂いている視線のエネルギーを感じようと。
そうして、次はどのように動くといいですか?って、観客席にも訪ねるような感覚でした。
決定権を自分の頭脳に持たせないでいく。それで、自分の内側の状態と体が感応することにお任せするという意識でいました。
ところで、神村さんは、
”動きの決定権を、舞台上で、人と人との間だったり、自分の皮膚一枚隔てた、 実際その場にある物や会場の空気感との関わりの中で知覚し続けている”ような感覚ありますか?
それとか、構成した動きなども、裏切ることで、自分の頭脳と体との間に、なんていうか、隙間が生じる。
その隙間からそこはかとなく現れている「論理的」なところから外れた、体の、今その場での現実を、 んー、旨く言葉で言えないんですが、”楽しんでいる”?
あと、神村さんは、作品で使用する音響、照明、衣裳や物たちを、どのように選んでいますか?
私が今まで観て来た神村さんの作品から持っているイメージでは、
特別な意匠を凝らすよりも、日常的な感覚を大切にされているように思っています。
それは、神村さんが
>私は、意識をどんどん分散させていって、それが動き続けている結果、 自分を含めた空間の全体像が浮かび上がるというような感覚です。 自分の比重がどんどん軽くなって、周りにあるものに結果的に溶け込んでいられるような感じ。
を感じていられる為に、自分が自分が、ってならずに、できるだけニュートラルな感覚を持てるようにしているからかなあ、
と思ったりしますが、どうなのでしょうか?
でも、淡々としていながら非日常。
今ここで実際に見えているものや触れている物と、それらとの間に生じる隙間。 そして目に見えない感覚。これらがずっと倍音のように響きあっている。
私は、神村さんの作品からこのような質感を感じています。そのバランス感を、踊りや振り付けの他にも
やはり音や衣裳など…の使い方にも意識されているのだろうと思います、それも、さりげなく。
そういえば、3月に観た385日(世田谷美術館エントランスホール)では、会場までの通路にはいろいろ置いてあったり、 ホールには大きな木の美術があったり、、、 そのときは、私はあまり意味で解釈しないのでそれは何で?とかあんまり思わなかったんですけど、そういえば、あれは何?
その、さっきも言った淡々と非日常な感じがしてくる効果がありました。
あともうひとつお聞きしたい事
絵や、写真や、詩や、音楽…から、イマジネーションをうけて作品に繋げて行くっていうこともありますか?
>大倉さんの踊りは、私が形として作品をすっきりさせるために切り捨てたりはしょったりしてしまっている
>微細なところを、丹念に拾ってつなげていっているように思えます。
のであるならば、
「神村さんの踊りは、私が自分の内面に意識を向けることで見えなくなってしまう他者の存在を、
常に大切に感じられているように思います。」
大倉摩矢子
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【往復メール3】 神村→大倉
大倉さん
こんにちは。
考えているうちに、前回のメールからまた時間が経ってしまいました。捻挫はもう大体大丈夫です。
文章、一気に書けるといいんですけど、今のところは無理そうです。
想像するに、大倉さんは書く前の段階で、文章全体の構想を、身体の中で潜在的に練っているのでしょうね。 書き出すときは、その蓄積の蓋を開けて一気に放出するという感じなのでしょうか。
BALの批評は、私も何回か徹夜しましたよー。このまま何も書けないんじゃないかと何度もくじけそうになりながら、書きました・・
無理矢理書いているうちに、普段の視点をさらにレンズで拡大して、細部まで見えてくるような感覚があって、 自分でも新しい驚きがありました。
個人的な感想なら、もっと身体感覚的なところから共感できたり違和感があったりすることを書いていたと思うんですが、 批評ということなので、なるべく外側から記述するように意識しました。
踊りの外的な見え方、具体的な形や動きと、 自分がそこから受け止める中身や感覚がどういう風につながっているのか、 ということを考えました。
踊りを見るときって、映画とか絵でも同じかもしれないけど、ただ目を働かせて眺めているだけではなくて、 その踊り手の身体と共振させながら全身を使って見ている、というか受け取っている。 特にダンス(広い意味で)をやっているもの同志だと、共感するベクトルが強すぎて、 表層的に何を見ていたのかを忘れがちになってしまう気がして、前回書いたときはそこをどうにかつなげたいと思いました。
でも確かに、力のある踊りを見ていると、身体が勝手に反応してきます。例えば手塚夏子さんのを見ているときは、 下腹を叱咤されるような感じで、チェルフィッチュは、末端からぴくぴくしたりむずむずする。
大倉さんのを見ているときは、なぜかこの中では一番踊り手との隔たりを感じているかもしれない。 客観的に突き放して見ているという感覚が強い気がする。観客の目には明らかな異物として入ってくるのに、 踊り手の内部で起こっていることと密かに共振できるような楽しみがあります。 それは、大倉さんの身体の中の空洞を、自分の身体の中に見つけて、そこで響いている音を想像的に聞く、というような感じです。
そしてその踊り手の身体と周囲が“切り離された“感じは、大倉さんと私の共通するところかもしれないとも思います。
動きや見た目が日常のあり方とは明らかに違うというのも、もちろんその感覚の入り口として機能しているだろうけど、 それ以上に、大倉さん自身の中にも、近さよりも隔たりにフォーカスを当てるような感覚が、もしかしたらあるのではないかなと思います。
地続きなんだけど、隔たっている。近いのに、どこか遠く、別の場所に立っている、という感じ。
実際どうなんでしょう?
私自身は、そういう感覚が強いです。
何かに向かって近づいていったり向き合ったりする時よりも、遠ざかったり向きをそらす時の方が、 相手との距離を手応えのあるものに感じられます。 なので、例えば見ている観客との距離、差異を基点にして、それをずらしたり一気に縮めたり引き離したり、という感覚で動いたりします。
ソロのときが一番、そういう観客と駆け引きするような感覚が強いです。 複数人で踊るときは、そのグループ内での関係性が前面に出てきて、観客との関係というのはさらにその外側に行きがちになる。 幕がもう一枚余計に張られてしまうような状態を、壊したいと思っていますが、 まだこれについては部分的にしかうまくいったことがないかもしれないです。
>自分の意志だけに動きを選択させないで、観客席から頂いている視線のエネルギーを感じようと。
>そうして、次はどのように動くといいですか?っ て、観客席にも訪ねるような感覚でした。
そうですね、8月のソロはそういう感じでした。
私もうまくいっているときは、振付であっても、自分の決定で動くというより、 その場に立ち会っている人たちの誰も求めていなかった一手がぽんぽんと出てくる、という感じになるときがあります。
えーと、質問いただいたのに全部答えようとすると間に合わなそうなので、
当日にお話することにしてもいいでしょうか?ごめんなさい。
でもひとまずこれについてだけ、
>絵や、写真や、詩や、音楽…から、イマジネーションをうけて作品に
>繋げて行くっていうこともありますか?
いつもではないかもしれないけど、何かの作品を拠り所にすることはあります。
こないだの「385日」の時だと、イタロ・カルヴィーノの「木のぼり男爵」という小説を読み返していました。 イタリアのある男爵の息子が、父親にしかられたのを契機に木に登って、そのまま一生を樹上で送ったという話です。 ファンタジーなんだけど、実際の歴史の動きと連動させてもあるし、ディテールの一つ一つには現実味があって、 でもそれを積み重ねていくと、小さいずれが堆積していつのまにか日常から離れて浮かび上がってしまう、
という作り方を真似できればと思って。実際はそこまでは行かなかったですが・・・。
では今日はこの辺で、一区切りつけますね。
時間があったら、ご返信ください!
神村
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【往復メール3】 大倉→神村
私はBALで神村さんの批評を書いたとき、私が神村さんのソロを観ていて共振した一瞬の感覚に焦点を当てました。
批評と言える文章ではなかったと思うけれど
その感覚を言葉にすることが、踊り手同士の書き合う意義だと思ったから。
気付くと、踊りの外的な見え方、具体的な形や動きへの記述が一切なかったので、われながらこれではいかん(笑)と、あとから書いた。
一番私が感じた事は主観的すぎるようで、あのときはなんだか書けなかった。
かろうじて最後の段落での一文ですが
「自らの深淵を識りながら、浅瀬に立って水平線を眺めてみる。」
というようなことかな…。
けっこうここは、感情的というか感傷的なんですよね、私はね。
神村さんから、この批評を書き合った後メールを頂いて
その中で、この一文もふくめて、
『自分がいなくなり空っぽになっているようなとき。
とか
自らの深淵を識りながら、浅瀬に立って水平線を眺めてみる。
とかはまさに、私が感じている、または感じたいと思っている感覚です。』
と書かれていました。
私もそうなので、共振したんです。
なぜ、神村さんはその感覚を、求めていますか?
それをいつか神村さんにお話をお聞きしたいと思っていました。
漠然とした言い方のまま終わりますが
あとは
メールではなく『尻尾と牙とまた尻尾』の3日間に委ねたいと思います。
今回のメールで頂いた神村さんからの
>地続きなんだけど、隔たっている。近いのに、どこか遠く、別の場所に立っている、という感じ。
>実際どうなんでしょう?
という言葉への答えも。
初日に、いきなり何かやってみることから触れていけたら。
楽しみです。
大倉
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9月16日(1日目)【それぞれ踊ってみる→話す】
神:まあ、今日はまずそれぞれ何か踊ってみるということで、
やってみたわけなんですが。
では何をやっていたのか説明するところから・・・。
大:今日の神村さんの出だしをちょっと真似してみたかった、というのが最初で。
あとは・・・5月のソロ(『明るさの淵』@テルプシコール)の冒頭のシーンで、
何気ない日常の動きから入って、
すっと壁の方に向いて振り返るというのをやったんですけど、その今回バージョンで
いこうかなと思って稽古していたけど、神村さんの真似しちゃったから、
そうはならなかったんですけど。
でも、”何気なく”入るというのが私にとってえらい難しいというか
簡単にいかないことだったんですね。
ソロのちょっと前に「385日」という神村さんの作品を3月に見て、
その時にあっと思ったことがあって・・・
神:え、あ、ちょっといいですか、割り込んで。
大:はい。
神:えーと補足すると、それは世田谷美術館のエントランスホールでやった作品なんですが、
出演者がそこに住み着いてるみたいな感じで入ってきて、
日常的な雰囲気からずるずるとパフォーマンスに入っていくというような始まり方だったんです。フェイドインするような。
大:そうそう、そのフェイドインしていくのが変というか妙な感じで・・・。
舞台に上がる前って絶対緊張しているから、何気なくいるのって相当難しい。
でもそれで何気なく舞台でいられたら、見てる方にとって相当おもしろい。
だけどそれには、相当巧妙に自分をフィクション化することが技術的にも意識的にも必要なんだろうなと思ってて。
それで、神村さんの作品を見てどこをヒントにしたかっていうと、
意識の使い方。神村さんの意識はこうなんじゃないか、と稽古中にわかった瞬間があったんですよ。
例えば、ぱっと窓を開けて、あ、雨降ってきた、あそこのうち布団まだ干してあるけど大丈夫?って思っているときの
人の後ろ姿って、とても”何気ない”ものなんじゃないのかな、と。
舞台上で何気ない入り方をするヒントって、意識を自分の身体中心に置くんじゃなくて、
あっちの布団とか、そこのセミとか、そういうところにぽーんと飛んで、
「あっ」と言った瞬間の身体、の使い方なんじゃないかと思ったんですよね。
神:うんうん、そう。
大:ですよね?(笑)だから、私が何気なく入るっていうのを稽古してたときにやってたのは、仮定するわけですよ、何かあるって。
舞台上には何もないけど。あー、何時かなー、あそこ洗濯物そのままだけど大丈夫かなー、っていうか
何だよこれ、とかやりながら、(意識する対象を)ざっざっざっとつなげていくんです。
で、神村さんのやってること、身体と意識の関係はそんな感じなのかなと思って、
それが5月のソロの最初のシーンでやってたことです。
だから何気ないっていうのは言い換えると、自分の内側に何の気もない状態、ニュートラルな状態だと捉えたんですよ。
神:うんうん。「385日」のときは、まさにそういうことを考えていて。しゃべることを入れて、常に扱う対象があって、
意識を対象に向けることで、自分をどんどん空にするっていうことをやってて。
大:うん、なるほど。
神:じゃあそれまでは、逆というか、むしろ内に内に意識を向けるっていうことをやってたの?
大:というかね、それまでは、何気なく入るとか、いっくら演出されてもできなかったんですよ、固くなっちゃって。
自分が一生懸命何気なくしようとしてる間って、結局自分のことばっかり考えてるから、自分中心に。何かそうじゃなくて、
ぽーんて、「あっ」ていう感じで、向こうに行っちゃう。それまでは、何気なくやってるつもりの人っていう感じだったのかな。
神:でもそうやって固くなって始めても、持続させていけばいい状態には行けるわけだよね、結果的には?
大:いや、うーん、神村さんの場合は意識を散らしていくやり方だからできても、
私の場合は、内側に何の気もない状態にするっていうのは、すとーんと自分の内側に落ちちゃう前段階の感覚だから、
最初に固くなっちゃうと、入り口はどこだー、どこだー、みたいな。(笑)
神:(笑)そっか、じゃあ入れないとずっと入れないんだ。
大:そう(笑)、どこどこーって。
神:じゃあ、入り口に入る作業というのを、5月のソロでは舞台上でやった。
それまでは舞台に上がる前にその作業を終えるようにしていたの?
大:けっこう、あれこれ手だてがあって。ばーんと動いて、わっと止まって、そこから入るとか、色んな作戦がありましたね。
あとは、暗転中になんか準備するとか。ラボ20(2002年/STスポット)のときなんかは、
最初しゃべって「今日まだやること決めてないんですけどー」とかぶつぶつ言って、笛吹いて、息続くとこまで。
で、息が出きったらそれを合図に入る、みたいな。なんかそういうあれこれ・・・
神:自分に暗示かける、みたいな?
大:そう、ある状態に入るためにあれこれ色んな作法を試して。歌を歌ったこともあるし。
でも、5月のときは何気なく入るっていうのができるようになりたかったので、神村さんのやってることがすごくヒントになって、
自分の内に何の気もない状態をぽんぽんぽんと作っていった。
神:うーん。なんか、「何気ない」っていう言い方をするけど、それって逆にすごく意識的な方法ですよね、手順を踏んで。
大:そう、何層にも渡って自分をフィクション化していくわけなんだけど。ほんとに何気ない人だったら、お金払わなくたって、
電車の中とかでも前の座席に座ってる人を見てればいいだろうしねー、いくらでもねー。
神:ふーん、そうですね。
じゃあ私について。今日は色々やることを考えすぎて、とっちらかった印象が自分としてはあったんですけど。。
最初のしゃべってた内容のことやろうとしてたんですけど、最初は環境を整えて、その中に身を置いて、
それを最終的には身体があって周りのものがあって観客がそろった状態、
その関係がゆるゆる動くような状態に最終的になればいいなと思っていたんだけど。今日はちょっと色々やろうとしすぎて、
だから大倉さんのを見てて、1つのことをぐーっと持続させてやってくのが、やっぱりいいなと思って。
私はやることをどんどんほっぽりだして、これもやってあっちにいってみたいに、
ぱっぱっと乗り換えていくようなやり方をするんだけど、
それがいい状態であれば、その切り替わりが持続していくという感じになるんだけど、
今日はあまりよく分からない感じで終わってしまって・・
そのー、感覚を、その(動きの)中に込めたい感覚っていうのがあって、でもそれを念じたってそれが降ってくるわけじゃなくて、
フィジカルな動きや方法が常にあって、それをやっていると結果的にそういう状態になると思うんだけど。
大倉さんの中で、それがどういう回路でつながっているのか前から興味があるんですよ。
今日も見てて思ったけど、ものすごい醒めてる感じがする。内に入ってるんだけどものすごい醒めてて。
大:うん、醒めてます。
神:ある意味人形みたいにそこに置かれてるっていう感じがして。でも大倉さんの感覚としては、
具体的な形をどんどん作っていっているというよりは、自分の身体感覚をとにかく追いかけてる感じなんですよね。
大:そうですね、具体的に形を作っているわけではない、うん。
神:でも、もし客観的にどう見えているかという意識が全くなかったら全然ちがう見え方になる、と思うんですね。
そこは、どうつながっているのかな?
大:なんか、技術というふうには説明できない気がしますね。やってきた中で自然とぱっぱっと・・・
でも、一番最初に、踊るときに自分の感情とか感覚をもとに動くというのがあって、
それからその状況を見ているもう一個の視点を持たなきゃだめだな、というのに気付いたところから変わったと思うんだけど。
そのきっかけは、グルジェフの本を読んで。グルジェフのワークでそういうヒントがあって。自分を徹底的にリーディングし続ける。
瞑想法とかでもありますね、ヴィッパサナー瞑想とかで。右足かかとつまさき・・・とか、自分の動きをリーディングしていく感じとか。
そういうのが参考になったけど。
でも基本的に、からだと、からだに付随する意識が、別々のものだっていう最初の認識というか感覚を信じられるかどうかで
変わってくると思う。
だから、舞踏では、例えばこないだ亡くなられた大野(一雄)先生とかは、「魂が先、肉体は後」っていう、完全に霊主体従。
魂、ソウルが先で、からだが後から付いてくるっていう。
私の場合はその流れを濃く継いでいて、とにかく内部・内側が先なんですね。
だから、からだを観ている意識と、寒いとかカレー食べたいとかの肉体的な知覚と、
それをもういっこ外側から見ている意識がある、というところからスタートしてるんだと思う。
だから、いつも意識が先、からだが後から付いてくる、ということ。
神:何度か話をしてて出てきたんですけど、剣道をされてたんですよね?
大:ええ、はい。
神:剣道の稽古の中で、型をひたすら身体に入れていく、というのがありますよね。やったことないから分からないけど(笑)。
そういう回路っていうか、身体の中に型を入れて込んでいくというか、形の中に身体を押し込めていくのかもしれないけど、
そういうのがあると思うんだけど。
その回路が既にできていたから、感覚というかモチベーションみたいなものから動きが生まれていくということと、
それを客観的に把握するということが両立されているのかな、っていう風に思います。
大:そうですね。私はほんとに踊りのテクニックを知ってるわけじゃないから、ほんとに説明し難いんだけど。
でも1つの、何というかメソッドというのがあるんですよ。
今日もやってましたけど、下から立ち上がるとかっていうのは基本の形があって何度も稽古するんですけど。
それを最初からできないから、何度もやって習得する過程で、ものすごく色んなことを考えたり試したり感じたりするでしょ。
だから、ひとつの型がからだに入ってくるっていうのは、それを習得するまでの自分の意識、あれこれ試したこととか、
時間とか全部がからだに入ってくるものだ、っていうふうに思ってる。それがいっこのテクニック。
だから、私は、あんまり悪い状態じゃなければ、下から立ち上がる、という型をやれば
からだが自然とそういう状態で立つことができるんですよ。
立ち上がり・振り返り・歩行、っていう三つの基本的なメソッドがあるんだけど。
かたちができるようになるまでの過程の色んな体験とか想いとか、が、からだに入ってると私は思ってる。
だから、一生進化するものですよね。
今と80歳になったときと、同じ歩行をやり続けてても、違うっていうこと。
神:逆に言うと、その形をやることで、今までの蓄積がその都度再生されるっていうことなのかもね。
大:そう、意識してはできないけど。私は型とか形っていうのはそういうものである、と思うんですよね。
神:私ももともとバレエをやってて、バレエもがっちりポジションが決まっていて。
でも、ポジションに入ること、型というものに対して、
私は自分の今までの経験が積み重なっているというふうに感じたことは今まであまりなくて、
むしろこうするべきという理想と実際の身体とその隙間でゆらゆらしてるというか、もう一個の防波堤みたいな感覚で捉えていて。
あるべき形はすでに完成されているというイメージで、でも実際の身体はそこに完璧にたどり着くことはなくて、
いつもその間を行ったり来たり、揺れ動いているみたいな感じ。
大:・・・そこが即興が主の舞踏から入った私と、バレエから入った神村さんとの違いかも。
私はけっこう言葉遊びみたいに変換して理解するんですよ。
さっきの「何気なく」もそうだし、「形」も、型の中に自分の血が入って「かたち」と捉えてるんですよ。
だから、型を習得するまでに、自分の血がばーっと入ってくの。
それをやるたびに、自分では何を伝えよう、これをしてやろうとか思わなくても、
何か知らないけど、その感覚がよみがえってくる。自分の習得してきたモノ=「血」が入っていってそれが形になる、ていう。
これはたぶん舞踏的な捉え方なんでしょうけどね。
神:そういうやり方っていうのは、どこまで教わるものなんですか?
大:いや、あのー、教わらないです、こういうことに関して。自分でそういうふうに・・・
神:基本ソロで進めていくんですよね?
大:そう。だからこういう言葉では教わらない。自分でそうかなっていうふうに。
神:言葉で説明されるってことは基本的にないんだ。
大:そう、あんまりない。
やってくうちに、あ、だから「かたち」っていうんだなとか、段々気が付いていって、段々進んでいって、ということの繰り返し。
こういう振付、型をするとか外から指示されて踊ったことがほんとにないので、それは神村さんとの違いかなと。
例えば、何気ない状態っていうのを2人ともそれぞれとっかかりにしているけど、
私の場合は、何気ない状態をぽんぽん続けていって、自分の中に気がない状態にして、
「来た」っていうところで、どーんと降りる。そういう風に使う。
でも神村さんはもっともっと、どんどん・・・
神:散らしていく。
大:そう、散らしていって。で、壁とかものとの関係性だったり(意識を)散らしていくでしょ。
だから、さっき打合せの時話してたんだけど、メールのやりとりの中で、距離という言い方を神村さんがしたのね。
例えば、人と人の距離とか、ものと自分の差とかずれ。私もそれは私なりに知覚してるの。
神村さんは外側にどんどん分散させていくけど、私は最初ぽんぽんぽんと分散させたら、どーんと降りちゃって、
ある状態に行くと、自分と何かとの間に、何かあるなってなってくるんです。
境界がぐにゃーんとなってくるんですよ。こうやって壁にべたっと付いてしまうとその関係性は終わっちゃうけど、
ある状態に入った中でやっていると、自分の意志じゃなくても、
こことここの間で磁石のプラスマイナスが引き合ってるみたいな感じでいられるんですよ。
神:そう、さっき話してたときに、大倉さんは対象との一体感という言い方をする。
でも私は距離とか隔たり、違和感という風に感じていて。
大:そう、同じことを。
神:言葉は違うけど、同じ感覚のことを言っている。だから話してるときに最初、お互いの言葉使いのくい違いに気付かない、
ということに気が付いたりして・・
私も踊りのとき、形とか人との距離だったりとか、周りの環境に対して違和感を生じさせるように動きたい、というのがあって。
例えば、ここに立っていて、次どこに行くか、選ばなきゃいけないときに、
一番違和感を覚える方向を選ぶというか、そういうセンサーを働かせている、というのがあって。
大:ふーん、なるほどねー。
神:だから、どこに行っても邪魔するものが感じられる状態に自分を置くというか。
大:ふーーん。その違和感が働き続けてるほうが、自分の知覚神経が働く感じがするからなのかな、ものとの関わりの中で・・・
神:何か、客観的に見ようとするじゃないですか。
例えば、ここに座っていることを、イメージの中で上から俯瞰してとか、客席からの目線を想定したりとか。
でもそのイメージの中と、実際の身体の感覚とか状態は絶対にイコールにはならないはずで、そのずれを見ていくというか。
それがどっちかだけになっちゃうと、いい感じに不安定な状態っていうのはすぐ消えちゃうと思うんですよ。
だからやってることが持続していて、かつ客観的にそれを追ってる視点があって、
両者が何の齟齬もなく平行関係で進んでるっていう前提ががっちりあるとつまらなくて、つるっとしたものになってしまって。
でもこれがイコールで本当に結ばれているものなのかっていう疑いを常に向けて、
その中のずれを探っていく作業が続くと、いい踊りになるっていう感じかな。。
大:ふーん、そうか・・
神:ではそろそろ時間なんですが。。「形」っていうものの捉え方が、やっぱり意外でしたね。
形に入ることも、ある状態に入るための入り口になるんですね。
大:そうそうそう、どっちもある。
神:フィジカルな面だけじゃなくて、それにまつわる記憶や感情が再生されるっていうことがあるんですよね。
大:そうそうそう、そういうことだと私は捉えてるんです。
だから、何もしてないのに見ちゃうっていうのは、
型の中にそういうものが入って燃焼している状態っていうことなんじゃないかと、捉えてます。
神:じゃあ、その形っていうのを手がかりにして、明日やることを考えていきたいと思います。
最後に質問とかご意見とか、何でもいいんですが、ありますか?
質問者1(ダンサーの手塚夏子さん/以下:手)
手:さっき、ソウルと身体と意識という言葉が出てきたんですけど、ソウルと意識は違う?
大:えーと、私も曖昧な言い方をしちゃったんだけど。。
手:三重構造になってるのかなと思ったんだけど。
大:そう、私は三重構造な気がします。肉体と、肉体に付随している精神と、それに囚われないもういっこの意識と。
手:先に行くのはどれ?
大:一番先に行くのは、、日常の生活でも機嫌良かったのに足踏まれてむかっとしたりとか、
いつも状態は変わっていくと思うんだけど、きっと、どれが先に行くっていうよりも、いい状態っていうのは
一本の糸で3つがつながってすーっとした状態だと思うんです。でも意識がやっぱり最初だと思ってる。
意識が感情、個人的な感情なのか、それとももっとすーっとしてる中でふっとしたとこから来てる感覚なのか、
という違いはあると思うんだけど。
手:でも見てるんだよね?見てる人が先なの?ていうのは、私も見てる感覚はあるんだけど、
私の感覚としては、見てる人(視点)は見てるだけなんです。
大:うん、見てるだけ。
神:その人は何もしないんだ。
手:身体は動くんだけど、動かしてる意識はないんですよ。(こういう仕組みを)わざわざ分けて考えなくてもいいんだけど、
自分で考えてみたときにどういう構造になってるんだろうと気になるので。
(私とは)見てて違うと思うんですよね、思いません?(神村に)
神:うん、全然ちがうと思う。
手:見てる意識があるってことは共通してるんだけど、あと身体が動いちゃうこととか。でも違うから、その中身が気になるんですよね。
どう違うのか、神村さん何か思った?
神:うーん、手塚さんは、暑いとか痛いとかの感情や感覚を普段だったらそういうものとして受けとめるけど、
踊っているときは、そういうものもフィジカルな反応のほうにまとめられている。
意識はそれを見てるけど、感覚と身体が一緒くたに反応しあっているというか。
大:うんうん。
手:うまい(笑)。じゃあ、そこがちがうんだね。大倉さんは一緒くたじゃなくて。。
神:そうだね、何だろう。。
手:なんか、途中で何かが切り替わる瞬間があるなっていつも思う。途中で何かがさーっと何かがなくなる瞬間があって。
それまではそこに行くまでの過程なのかなと、今日も思って。
例えば、感覚みたいなものが、砂が落ちるように意識がなくなって、
身体が置いてけぼりみたいになって、ものみたいに変わってくるのかなと。私は、全然意識は除けないんだけど。
神:そう、「抜き取られていく」感じがある。
手:あるよね。
大:うーん、そう、その入る感じっていうのがあるんだけど、最近新聞記事を読んでこういう感覚かなっていうのがあって。
サッカーの岡田監督の言葉で、いい状態のときはチームが”ゾーンに入っている”。
オリンピックのスピードスケート選手とかでも、そういう感覚があるみたいですけど。
周りのモノと自分とが別々じゃないものになって、身体と周囲の境界が消えてどこまでもいけるみたいな。
マラソンの人だとランナーズハイになるとそういうのがあるみたいですね。
そういう状態にあるときにすっと入ることがあるんですよ。で、来たって思ったら、絶対、そこだけで行くぞっていう。
ゾーンにばーんて入っちゃったら、入りっぱなし。そうすれば、あとは自分で何もしなくても、やってくれるっていう、そういうこと。
神:でも何か、入りっぱなしっていうよりは、その中で浮き沈みがあったりとか、揺れ動きがあるように見える。
大:そう、ある。それは観てるこの辺で。
神:だから浮かび過ぎちゃったら、こっちだこっちだ、みたいな。
大:そう、この人が出てきて、壁に近づきすぎ、まだちょっと動いちゃ駄目、感情入れすぎ、とか、指令が出てくる。
手:私は基本的に指令はしないかな。
大:あー、しないんだ。
手:ただ、立ち位置とかくらいはするけど・・
神:だから、(大倉さんは)共同作業みたいな感じ。手塚さんは完全に放置。
手:そこは性格の違いなのかな 真面目さが・・(笑)
神:そう、放っておけない
手:そういう意味では、大倉さんと神村さんの真面目さは似てる。
全然やり方はちがうけど、神村さんも自分の中で計算というかやりとりをしてるから、
それもある意味で真面目さがやらせてるような感じがして、その部分がすごい2人は似てる気がする。
だから今回どうなのかなと思ってた。(笑)
大:こんなストイックな2人が、って?(笑)
神:ご心配おかけしました。(笑)
質問者2(以下、質)
質:5月に大倉さんの舞踏を初めて見まして、普段は全然見ることないし自分でもやらないので、門外漢なんですが。
大倉さんの身体の動きというのは、人間の限界に迫っている感じがして。
人間の身体がいつか死んで消えていくっていうのを意識したんですね。
大倉さんは実際踊っているとき、死というのを考えたりすることはありますか?
大:あります。考えてます。あと、自分の身体の輪郭線とか消えていくっていうことが好きで。
神村さんのことを見てても、そこに反応するんだけど。
BALの批評文でも書いたんですけど、神村さんがいい状態になったときもそういう感じがして。
自分の輪郭線が粒子になって消えてっちゃいたいというのは、死っていうことと、共通してる気がします。
感情っていうものをどうするのかという 話がさっき出てきたと思うんですけど、
例えば、壁と同じように粒子になって振り返るという動作にも、ただの壁と捉えないで、内的な必然性がほしいんですよ。
だから、自分の中に作っている先入観とか経験とか感情と壁をつなげて意識しようとするんです。
意識の中のブロックとか滞りみたいなものをばーっと溶かすようにしていって、ある状態に入ったところから振り返るとか。
乗りこえる、壊す、横から回るとか、壁にぶつかって色んな選択肢があるとしたら、
溶かしてみようというのが私の方法だったりするんですよ。
いつも、内的な葛藤や関わりと、ものというのをすごく意識する。
輪郭線を淡くしていくときも、自分と自分以外のものを区別する意識を消していって、一体感を感じるようにしてる。
だから、自分のことばっかり、外のことと関わりがないと見る人もいるけど、
輪郭線を消してっちゃいたいとか壁に入っちゃいたいっていうのは、
ある意味肉体が消えてっちゃって、死んでも何かあるだろう、っていうことでもあるだろうし。
立ち上がる、振り返る、とかの単純な動きも、いつも自分の内側での切実さとつなげて捉えるようにしてるんです。
神:感情とか感覚とのつながりを、つなげつつ放出して、散らしていく、ということ?自分の中に濃く溜まらないように。
大:そうそう、そうすることで、どんどん捨てていきたいのね。
捨てるっていうか、自分の中にあるブロックみたいなものを溶かして一緒の粒子になることで、
そういうものからもっと自由になりたいの。
そういうのがないほうが、もっと楽じゃないですか、みたいな(笑)。
神:私も捨てていくという感覚は強くて、でも細かく見ていくとまた違うんだろうけど、それはまた明日ということで・・・
大:そうしましょうか。
大・神:本日はありがとうございました。
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【往復メール4】 神村→大倉
今日はお疲れさまでした。
大倉さんのソロを見て、一つのモチベーションを貫く覚悟の強さを改めて感じました。私はたくさんのことを試そうとしすぎて、 一つ一つが浅いまま進んでしまった感じでした。 深いところまで行けると、それをばっさり切り捨てられるのに、それより手前で焦って次のことに手を付けてしまっていた。
私の見ていた位置からは、踊っている大倉さんとそれを見ているお客さんの両方を、ちょうど横から見ることができて、それも面白かった。 こんなに近くにいて、向かい合っているのに、違う次元のものが入り込んでいるというか、 実はお互い見ているつもりなのに見えていないんじゃないか、という気さえしました。
大倉さんは、踊っているとき観客も含めて周りのものとの一体感を感じる、という風に言うけど、 私から見るとやはり大倉さんの踊りには気持ちいいほどの断絶が見えるのです。
同じ感覚について全く逆の言葉遣いをしている、ということにも話題が及びましたね。
私が“距離“とか“ずれ”、と表現することを、大倉さんは“一体感“という言葉を用いる。 例えば壁に手を伸ばすとき、その一見ストレートに見える運動の中には、 壁に近づくこと、止まること、遠ざかること、の3つのことが細かく織り込まれている。 手を伸ばすという行為の中で、その3つの可能性のどれにも居着かないように順々に巡っていっている。 私の場合は近づくことに居着かないように意識を向けるし、大倉さんは遠ざかることに固着しないようにしようとする。 でもその3つの可能性が順々に回ってくることはきっと変わりがない。
回りくどい言い方になってしまいますが、例えばそういう風に言えると思いました。
私が知りたいと思っている/いたことの一つに、大倉さんがどうやって客観的に自分の形を俯瞰する視点を得てきたのか、ということがあります。 その方法の一つが、踊りの型を自分の中に入れ込むということだろうと思います。
大倉さんの「型」についてのお話は、とても興味深いものでした。
単に身体の形を習得するというだけではなくて、それを習得するまでの経験やそれにまつわる感情など全てを自分の中に取り込むということ、 そしてその型を行うことが、その経験の総体が自分の中で再生されるようなスイッチになるようにすること、というのは、 私にとってはすごく新鮮な言葉に聞こえました。でも、その後よく思い返してみると、 バレエの動きに対して自分もそういう感覚を持っているのかもしれない、とも思いました。 そしてそれは、歴史とか先人に対するリスペクトだったり、これまでの蓄積を引き継いでいるという責任感、 みたいなものも含んでいると言えるかもしれない。
今日見に来ていた手塚夏子さんと、終わった後に話していたとき、手塚さんは、権力や上からの圧力への抵抗というのが、 一番強いモチベーションとして自分にある、ということを言っていました。
でも私自身はあまりそういうことはなくて、むしろごく個人的な快楽をより先鋭化あるいは純粋化したい、 というのが最初の動機としてある気がします。 なまの身体とか自分の存在をより抽象化していく、無化していくような欲求です。
その志向は、大倉さんと共通している、内と外を一つの延長線上に置くという感覚に深く関わっている感じがするのですが、どうなんでしょうか。 (質問というわけではないので、答えていただかなくても大丈夫です)
いろいろ書ききれないですが、ひとまずここでストップして、続きは明日に。
神村
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【往復メール4】 大倉→神村
昨日はありがとうございました。
私の方は、昨日のソロは、もう少しやりたかったイメージがあったんですが、実際に出て来たことは、どうだったかな。。。
ロシアの映画監督、タルコフスキーの『映像のポエジア』という本の中で、モンタージュの話があって
(友達に借りて読んで、もう返したので、書かれていたとおりの言葉ではないですが…ニュアンスとしては)
モンタージュをしようとしなくても、ひとつひとつのショットが本当に生きていれば、ショットとショットの繋がりは自然に生まれてくる、
ショットの生命から映画は生まれてくる、
というようなこと。
踊りも、一人一人の手法はあるけど、やはり、そのように生まれてくるものを目指しているんだなって、
神村さんからのメールの言葉を読んで、思いました。
ほんとに、一体感、大切に、ほんとにそれを感じたいというか、そのものになりたいと思っているけど、今はまだその途上で。
だから私の大きな目標であるし。
これはずっと一生かけて深めていって、ここでよしとして終わりのあるものではないと思っています。
同じ感覚を、神村さんの言葉と私の言葉で逆の言葉を使っている事があるのですがね〜。
だから、神村さんの言う”断絶”ってどういう感じかなあ。
「型」についてが、昨日の話のポイントの一つだったですね。
私は「かたち」というのは、「かた」に「ち」が流れて「かたち」になるのだと意識していると言いました。
「ち」って、「血」「気持ち の ち」「命 の ち」であったりします。
私は剣道少女だった、特に中学生のときは、ともかく毎日毎日稽古の積み重ねで、稽古はとても厳しく、泣いていた事のほうが多かったです。
泣いたこととか、悔しかったこととか、皆で一緒に稽古して試合で勝ってほんとに嬉しかったり、合宿の思い出だったり、
そうしてひとつのことがようやく少しできるようになったときの、視界が開けて開けていくような明るさや身の軽さ…
そういうあらゆる体験と時間があって
「かたちと自分とが一体になる」
という感覚なのかな。
私にとっての剣道での体験は、神村さんにはバレエなのですね。
神村さんのメールでの
>歴史とか先人に対するリスペクトだったり、これまでの蓄積を引き継いでいるという責任感、みたいなものも含んでいると言えるかもしれない。
だから、この言葉は私にとって、とても興味深いことです。
そこまで認識したことが私にはなくて、それは、バレエと舞踏の経て来た歴史や年月の違いもあるのでしょうが、
剣道のことに話を戻すと
剣道をやっていたことで自然に身についた感性や感覚、物の捉え方、考え方があります。
それは、歴史とか先人からずっと引き継いでいる「かた」だけではない日本の「ち」の繋がりなのかもしれない。
外側からの「かた」だけでは、その一時はいいかもしれないけれど、いつか消えてなくなってしまう。
でも、時代や歴史や人や国がどのように移り変わろうとも、ずっと受け継がれて行くものには「ち」が流れている。
「かたち」の中には、あらゆる先人たちの「ち」もあって、そして、今ここにいる自分の体験や時間、「ち」とがあって…
それは、とてつもなく大きく、深く、広く、豊かなことのように感じられます。
ところで、昨日の帰り道のアイデアで
今日は、昨日〜この往復メールのやりとりで、これは、とアンテナが感知した物をお互いが持ち寄り、
二人が同じ物を見てそこからどのように自分の踊りに繋げて行くかをやってみましょうということになりました。
神村さんと大倉の踊りが対照的だったり、『同じ感覚について全く逆の言葉遣いをしている』ということもあるけれど、
他にも、面白い塩梅で反転していることがあるように私は思っているんですよ。
それが、
先日の往復メールで私が質問していた舞台での 音・衣裳・照明 との関係性や、構成、作り方とか…。
昨日は、感覚的なことを中心にした内容のトークだったので
今日は、具体的なことから入っていって、話したり、即興でやってみたり、そこから
共振する感覚に触れて行くというようなことが生まれたらいいなあと。
例えばだけど、神村さんが右で 私が左 だとして、
やじろべえみたいに、右 左 ってあって、でも中心の一点ってあるじゃないですか。
それとか、右 左…ってバランスとりながら渡って行く綱渡りとか。
共振する感覚って、その中心のような、一本の綱を渡っていくようなところのように感じますよ。
昨日の終演後にスタバでお茶したときの、神村さん、手塚さん、大倉のモチベーションの在り方の話も、
それぞれの生い立ちがあって、最初のきっかけもそれぞれだけど
川の支流が大きな本流に繋がって行くように、同じ方向を見ていると思う。
神村さんは、バレエと自分との距離や関係のことも昨日話していたように思います。
私は、どうかな、自分の生い立ちの中でどうしようもなく抱えて来てしまったものとの葛藤、かな。
個人的でしたね。一言では言えないけれど。
でも、最近は、そこから、今この世界というか、社会というか、そういう中での自分の生き方、ということ意識するようになりました。
世の中っていうか、いろいろあるけど、自分が進んでいる一筋の道は見失わない。
そこからどのように、じぶんだけの個人的なことではなくて、あらゆる人たちや出来事や社会と繋がっていけるんだろうか、
政治とか、いろいろあるようですが、本当に深いものは一人一人の内面から内面へと伝わっていくもの
革命っていうと大げさですけど
これからの課題なんです。
気持ち新たにして、今日も会場へむかいます。
大倉
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9月17日(2日目)【それぞれが何か作品を持ち寄って話す→それに基づいて踊ってみる→話す】
神:本日はご来場いただきましてありがとうございます。
大:ありがとうございます。
神:今日が二日目ということで、
今日は、昨日の初日の内容を受けてまた違う内容をやっていきたいと思います。
まず、昨日話したことや試してみたことについて説明します。
昨日は最初それぞれソロを20分ぐらいずつやってみて、
そのあとトークをして、そのソロの中でそれぞれ何をやっていたのかということと、
そこからどういう共通項が引き出せるかな、っていうことを話して。
話は、色んな方向にいったんですけど、
私が個人的にすごく面白かったのは「型(かた)」について、っていう捉え方で、
大倉さんが、「型」を習得するっていうことが身体の動き、
技術としてそれを身につけるっていうことだけじゃなくて、
それにまつわる全部の経験とか感情とかっていうことを引き出す為の
とっかかりみたいなものとして最終的には作用する、
その型にはいることでその今までの蓄積が、
どんどんまた自分の中で再生されていくみたいな、
そういう機能がある、っていう話をしてて、私はそういう捉え方を今まで全然してなかったなと思って、それがすごく驚きでした。
あともういっこ、同じ感覚っていうか、すごくお互いの踊りを見てて共通する部分がたくさんあるなと今まで思ってきて、 それでその感覚をそれぞれ言葉にしてみたときに、私はその対象との距離みたいなこととか何かと自分のズレだったりとかっていう感覚を すごくリアルに感じながら動くんですけれども、大倉さんは、多分同じ事を指してるんだけど、逆に、距離とか隔たり、っていうことじゃなくて、 その物との一体感っていう、近さ、近づいて行く方向っていうことをすごく感じている。
言葉は全然逆なんだけれども、多分同じような感覚をすごく大事にして動いているんだなっていうことが昨日わかりました。
で、今日は、あ、大倉さんからありますか?補足…とか
大:いえ。
神:まあ、昨日はすごく感覚的な、踊り手としての内的な感じっていうところから話題に入っていって、二人が共通してなにか
重なっている部分を探っているような感じだったので、今日、二日目はそこからまた違うベクトルを見つけていこうという感じになります。
で、一つずつ、なにか自分がインスピレーションを得られたりとか、自分の持っている感覚とすごく共通する部分があると思えるなにか、
音楽でも絵でも詩でもなんでもいいので何かひとつ持って来ようということになって、今日それぞれ一人が一つずつ持って来ています。
まずはそれを出し合ってそこから話をして、それをもとにそれぞれソロをやっていく、
で、またそれをふまえて話をして、っていう感じでまた最後の三日目に繋げたいと思います。
じゃ私から(笑)?あ、じゃあ大倉さんから…。
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森山大道《木古内》1978年 |
大:はい。ということで。私は森山大道の写真の中でこれを持ってきました。
今回のためにこれを持ってたというか、突然思いついたわけじゃなくて、 ずっとここのところ、このシーンというか、この写真がすごく気になっていて・・・
さっき神村さんが話してくれた昨日の話の中で出た共通点のなかでもういっこ、
自分の内側がこう、空っぽになっていくっていうことと、そのことによって、神村さんは距離って呼ぶんですけど、
私の場合は自分の輪郭線とかも、さぁーってこう、(他のものと)同じように、ぐにゃあってなったり粒子になっていくような感じがあって。
で、物と壁とか、こことここにある(物とと自分との)間、ここを神村さんはを距離って言うんですけど、
私は、ここに、なんか、もわぁってくるものを一体感って呼ぶんです。そういう、物と自分との境目とか境界がなくなっていくような感覚、
っていうのがもういっこあったと思うんですけど。
私はこの写真を見てて、そういうところへすうっと消えて、犬が消えていってしまうような瞬間のようなものを感じたり、
あとは、ちょっと一言では言えないですけど、昨日のことと繋げて言えば、なんだろうな…、
ふっと…。そうですね、やっぱり、消えて行く感じ、っていうのをすごく感じるんですよね。
消えて行きそうなんだけど、でも犬が今まで確かに生きて来たことっていうのもすごく伝わってくるような。
その二つが同時に感じられるかな、昨日の話の繋がりで言うと。そういうことで、今日はこれを持ってきました。
だから私にとってこれは、自分の内側が空っぽになって消えていっちゃうような感覚と、でも同時にこう、なにか確かにいた、というかいる、
そういう強さみたいな、それが、ふっと振り返ったこの一瞬にパアンって開けているような感覚です。それで持ってきました。
神:私は、そうですね、すごいこの写真を見ると踊っているときのいい状態をすごく思い出すというか、この状態と地続きでいられるといいかな、
っていう感触がすごいあって。具体的なものが写ってるんだけど、シルエットで、ほんと線だけに…、線と面、っていう感じで
パッパッパッて構成されてて、なんかその感じっていうか、ちゃんと写ってるんだけど何もない、何もなさが同時にあるみたいな感じとか…。
すごく遠い…、ここに、真ん中に犬がいてこの犬が中心っていう設定になっているのかもしれないけど、そのわりにはあまりに小さいし、
あまりに距離があるし、なんかそのスカスカ感っていうのがすごいいいなって思います。
大:ここからテーマにできますかね。まあ、なんとか、うん。
神:じゃあ私の持って来たのを。私は詩を持ってきました。萩原朔太郎の「蛙の死」という詩です。
「蛙の死」
蛙が殺された、
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしよに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた
月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。
まあ、こういう短い詩なんですけど
私はそもそも詩を読むのがすごいもともと苦手で、あんまり読まなかったんですけど、言葉を読んだりとか書いたりする時って、
すごくその明確さっていうか、その意味をわかりやすく捉えたいっていうのがあって、最近は、その言葉のリズムとかを、
ただ自分の中で反復したり、ここで描かれてる世界に入って、描かれてる世界のまたその裏側とか、
勝手に中に入り込んでみてみたりっていうことが、そういう楽しみ方ができるかなと思って。
で、この詩がなんで面白いって思ったのかっていうと、
単純にこう、すごい残酷な、蛙が殺されて、子供が血だらけで、血だらけの手で、それを見下ろしている、そういう丘の上にいて、
そういう情景で、でも別になんかこう残酷な陰惨な雰囲気でこれが終わるかっていうとそうじゃなくて、
最後に視点がどんどん上がっていくんです。
蛙がいて、子供がそのまわりにいて、みんな一緒にかわゆらしい、その血だらけの手をあげて、月が出た で、一気に上にパンって飛んで、
最後の 丘の上に人が立っている っていうところで上から俯瞰する視点があって、 帽子の下に顔がある っていうところでまたそこでフォーカスが更に下に合って行くっていう感じの、 なんていうか、ドラマはそこにあるんだけれども、その視点の移動、構図がどんどん変化して、
またそこに、ひとつのところに収まってみたいな、そういう自由さみたいなのがあって。
自分もそういう自由な感じで動いたりとか作品が作れたらいいなとも思うし、大倉さんの踊り方、なんかこう、どんどんフォーカスが
徐々に徐々に、移り変わって行くような感じとも共通するものがあるかなと思って持ってきました。
大:そこが意外で、え、そうですかあ、みたいな、私と共通してるものがありましたかあ、みたいな。
いや、だってこれ、どんどん主語が入れ変わって視点が変わるあたりが神村さんじゃないかと、私は。
神:うんうん、はあ~、そっかあ。
大:うん、ほんとにそういう感じで、はい(笑)。
会場:笑
神:普段詩とかあんまり読まないん…ですよね?
大:そんなにいっぱい読んだりっていうのは、ないんです。
神:どういう、インスピレーションの”もと”があったり…?
大:もと?
神:そういうビジュアル的な…映像だったりとか…
大:…のときもあるし、うん、そうですねー。
神:なんか私、例えばこの森山大道の写真を見ると、さっきの大倉さんの話では、その前後の流れをこう想像する、っていうか、
大:うんうん。
神:そこにそれを読み取って行くようなところがあると思うんですけど
大:はい
神:私、そういうふうにはあんまり思わなくって、あくまでもここに今映って、ここに切り取られる、ものの関係を、楽しむみたいなところがあって。
大:ああ~。そうなんですね~。私が所属している天狼星堂の公演で、 曽我蕭白の絵で”釈迦と鬼”の絵(『雪山童子図』/明和元年(1764)頃。
主題は釈迦の前世譚で、釈迦が、実はインドラ神の化身である世にも恐ろしい鬼と遭う場面が描かれている)のシーンを、 メンバーのワタルと二人で、ワタルが鬼・私が釈迦の前世で、やったことがあるんです(大森政秀構成・演出)。 動かない絵の、最初は模写みたいなとこから入って、そこからこう、二人のシーン、15分ぐらいの実際動くシーンをやったんです。 だから、そういうところから…かなあ?
写真や絵をを見たときに自分の中でパッと、見た瞬間に受けるイメージを手がかりに、最初は即興でポーンといけたりするんだけど
そのシーンを何度も繰り返して本番にしていくとき、自分の中で想像を膨らませて、 自分のこと、自分の動きの必然と繋げて行くということになってくるから。 だから、動かない写真や絵から前後の流れも想像して、という感じになる。でも最初のかたちだけパッて、とっかかりだけやって、 あとはもう全然もう忘れちゃってやっちゃうということも両方あるんですけど、うん。…っていう感じかなあ…
神:昨日あんまりそういう話にはならなかったんですけど、やっぱりすごい、時間軸の持続性みたいなものを大倉さんの踊りには強く感じて、
私は逆に時間っていうものをうまく扱えないっていうか、どうやってこう、どうやってこの繋がりがあって起伏があって、っていうのを、
何を理由に作ればいいのかよくわかんないんですよ。なんかいつもこう、ほんとにこういう例えば、パラパラマンガみたいなのを(笑)
こういうかたちとかこういうかたちとか、っていうのをどんどん並べていって、それが結果的にその間が繋がれて、動きになって、
ある時間の長さができるっていうような感覚の方が強くて。
大:そっかー。
神:そこが全然、入り口として、違うんだろうな、って思いました。
大:こういう場でこういうお題を持ち寄って、その場でポンポーンってやるっていうこと自体、神村さんも初めて?
神:初めてです(笑)
大:ですね~。初めてやる同士。
神:あと、直接何かを題材にとって、踊りを作って、っていうことはあんまりやったことがないので…。
とりあえず、どうこれから、自分の踊りにこれをどう利用するか、っていうことは言わないでやってみて、
そのあとのトークで実際何をやってたか、っていうのを話していきたいと思います。
大:じゃあ、先攻と後攻を…。神村さん、いきますか?
神:ちょっと、考える時間を…(笑)
会場:笑
神:私ちょっと考える時間がほしいんですけど~、あ、もちろん大倉さんがやってるときは見るから…どうしよっかな。
大:じゃ見ながら考えて!
神:ああ、じゃあ…
大:あ、そうしたら私が先になるのか!
神:でも昨日は私が先にやったから~(笑)
大:じゃ私が先にやってね、って感じですね(笑)。
神:いや、どっちでもいいですよ(笑)
大:じゃ、いいですよ、先で。
引き続き順番や使う曲、曲を出すタイミングなども全てその場で決めて踊りました。
音は、各自持って来ていた音源の中から、その場で選んで音量やタイミングを決め、お互い相手に音をかけてもらいました。
1・萩原朔太郎の詩を題材にー大倉ソロ
2・森山大道の写真を題材にー神村ソロ
休憩をはさんで
3・森山大道の写真を題材にー大倉ソロ
4・萩原朔太郎の詩を題材にー神村ソロ
の順番でした。
大:はい、じゃあ神村さんから、教えてください。
神:はい、じゃあ…。最初森山大道の写真を題材にして踊ったんですけど、どういうふうにやったらいいのか(笑)
ちょっとわかんなくて、でもさっきの大倉さんの話がヒントになってというか、大倉さんのやり方を結局やったのかもしれないけど、
この写真の中に身を置く、っていう感じのことをやろうと思って、とりあえず、この一直線の道を、ここからこの犬の間を通って(笑)
大:!!そうだったんですね(笑)!!犬の間を通ったんですね!!!
神:犬の間を通って、こっちの右端の方を
大:右端の方を!
神:とりあえずこの橋の端っこまで行く、みたいな
大:行ったんですね!あ~。最後はじゃあ、橋を…
神:渡ってる…
大:渡ってる感じで…!ぞれ全然私のやり方と違う(笑)!
神:あれ、違うんですか?
神・大・会場:笑
大:あ、なるほどね~
神:いやこれ大倉さんなのかなって思ってやってたんだけど
大:笑
神:え~と~、まあ、だから、別にそれに対応した動きっていうよりは、なんていうのかな、 まずここにほんとに自分がいる、っていう感覚を信じられるまでまずそこにいてみて、で、またそこで移動して、 色々なんかドラム缶が重なってたり犬がいたり川で景色が広がったりとか、まわりの空間が色々、きっと変化していくから、 その道のりが真っ直ぐ遠くになったりとか、後ろに逆に広がりが来たりとか、 そういうことをそのつど自分の感覚の中で再生できるかっていうことをやりました。
大:ああ~。
神:さっきなんで大倉さんっぽいかって言ったのは、時間軸を勝手にここに持ち込む、っていうことが一番…私今までだったら、 ここにひとつのストーリーというか、起承転結みたいなのを想定するっていうことはあんまり考えたことなかったんだけど、 でも、この中をゆっくり、この中の時間を勝手に体験してみよう、みたいなことをやりました。
大:え~、私は、森山大道の写真を題材にしたソロは、音はこのために持って来てた音じゃなかったんだけど、
使いました(ザ・ベンチャーズ『RAP CITY』。休憩前の神村ソロが無音だったので、休憩後に転換しようと思って使用した)。
私の場合は、この振り返ってる感じと、ざわざわざわっとこの犬の時間を引き連れてる感じ、っていうところですかね。
なんていうんだろう、私の場合の時間の捉え方って、ここからここに進んで行く時間っていうことじゃないような気がするんですね。
神:外の運動の時間と自分の中で感じる時間ってすごい…
大:そうそうそう、そういうことです。
神:速い時は逆にゆっくり感じたりとか…
大:うん…、ここからここに進んで行くのに○○秒かかります、っていう時間の捉え方じゃないんですね。
神:なんかその、細かく…、細かく細かく割ってくみたいな感じがすごいするんですよね。見てると。
大:うん、でもまあ、私の場合その、時間っていうよりもこう、なんかこう… ずざっと、こう、…ずざっと、引き連れて行く気配というか、そういう感覚が…。
神:あとに積み重なっていくみたいな感じ…?
大:そうですね、だから、振り返るのに1秒、っていう振り返りじゃなくって、
ずざっと来るからこう行ってる(体が振り返る動きになる)、っていう
神:うん、その手応えを持って…
大:これを途切らせないように、振り返るっていうとき、引き連れている感覚っていうかなあ。そういう感じ。
それで、萩原朔太郎の詩に関してはほんとに今日初めて読んで、初めて見て、視点の主語が移り変わって行って、
視点がポンポンポンポン変わるところがすごく神村さんらしいとさっき感想で言ったんですけど、
私は最初どことっかかりにしていいか
わからなかったんだけれども、
なんていうか、やってるうちに、あのー、可愛いすぎて握りつぶしたくなる小動物っていませんか?
手乗り文鳥飼ってたんですけど、うわ~ってやると(にぎって頬ずりすると)可愛いから、 『うわーーー!かわいい!!』って、ギュー!!ってやりたくなるのを、一生懸命(その衝動を)押さえながら、
『ん~~、でも潰したい可愛いすぎて!』っていう感覚すごくあるんですけど私(笑)
神・会場:笑
大:それを思い出して、もしかして蛙のことが可愛いすぎちゃったんじゃないかなと。 で、蛙死んじゃったけど、全然この悲しい感じじゃなくって
神:ああ、もう十分可愛いがったぞ、みたいな
大:う~ん、なんていうかねその、変な、変な殺したい感じ、っていうことと、あと、なんていうのかなー、悲惨じゃない感じ?
だから、そこに居着いてないって感じですね、 神村さんもご自身でも(神村さんの踊りの目指している感覚として)よくやってますけど。一つの感情とかに居着かない…。
私この詩をパッと読んだときに一瞬思い出したのが 日本の絵描きの人で、熊谷守一さんって、猫の絵とか書いてる人なんですけど、その人の言葉で
「月が出ている
何ということもない」
っていう一言があるらしいんですけど。そこに月が出ていて、普通だったら、ああ、きれいだな、とか、そういう感情あるんですけど、
「月が出ていた」の次に「何ということもない」って一言さっと。なんかそういうような…
神:言った事をまた否定するというか
大:あとそう、ほんとになんていうか、スコンと抜けてる…「おう、それで?」的な視点?っていうのをすごく思いました。
なんかその…可愛すぎてっていうか、変な殺したい感じと、ん、それもどうということはない、みたいな、 もっとそこの感覚掘り下げる時間とかあると、いっこシーンが作れるような感じ…。
今日10分だったから、「ああ~、そういうのありだな」と思ったあたりで終わってしまったんであれだったんですけど。
神:私はすごい、なんていうのかな、偏在しているというか、視点が。視点が移動してるけど、いちおう詩だから順番になってるわけで、
こう、全部に視点が行き渡ってて、その感情もなんか、どっかに固まってるんじゃなくて全部に分散されている。
偏在してる感じがすごい大倉さんっぽいなって、私はすごいこの詩をを読んでそう思ったんですよ(笑)。
大:あ、そうなんだ…(笑)。神村さんでも実際この、殺した子供から、月が出て丘の上に人が立っていて、帽子の下に顔があって、
でもやっぱりここに蛙が殺されてたみたいなことをやったの?私はそういうふうな感じを受けて見てたんだけど。こう、順があるような…
神:この写真のほうはすごく一本の時間でやったから、これは逆に、勝手に変えようかなと思って。 丘があって子供が丸くたってて、真ん中に蛙が死んでて、その上にさらに月が出てて、帽子を被ってて、っていうその状態をまず想定して、 順番に勝手にピックアップして。例えば、月だったら、月が出てて、その月と自分と距離があって、 自分から見てこっちの方向にあるっていう、その感じを確かめるように動いて、それが終わったらじゃあ、次は蛙とか、じゃあ次は子供、とか
大:やっぱり蛙になったり子供になったりしてたんですねー
神:うん、そう。でまあ順番はべつに、これに関わらずというか、勝手にその場で思いついた順でやってった、っていう感じです。
大:うんうん…
神:変換の仕方っていうか、やってて思ったんだけど、やっぱり、昨日大倉さんが言ってた「型」についても、
どこまで自分の経験であったりとか、もともとの感情であったりとか、どこまで、自分の実感に繋げられるかっていう、 ほんとにそこ一本っていうか、そこをとにかく掘り下げていくっていうことを言ってて。
それはすごい私もいつも思っている事なんだけど、作品にまとめたり振り付けに起こすときに、ちゃんと、きっちりとした
形に、形は形で作りたいっていうのがあって。そうすると、実感じゃなくて、その前後の連なりの中でいい形であったりいい展開っていう方に
ひっぱられがちで、そこで納得して、その文脈ならしょうがないっていう納得の仕方で動いてたり、動きを選ぶっていうことがけっこうあって、
やりながらも、あ、これはすんなりいけるけどこれはちがう、っていうこととか、 その感触をすごい、大倉さんからなんかいい影響を受けてやれてる感じがして、自分としては。
大:なんかその…(神村さんと大倉は)同じ感覚の事を言ってるんだけど違う言葉を使ったりとかしてて、
だから今の、ちょっと今のはあとで録音したのを聞いてみます。
作品の作り方とか私チンプンカンプンで全然わからないから、ほんとにわからないまま聞いてしまったんだけど(笑)
神:(笑)そう、作品、っていうことについて話を繋げていきたいなと思っていて…。
まあ、今日たまたま他の作品を持ち込んで、それから引き出す、踊りを引き出して、っていうことをやったんだけど。
作品っていうことが、作品にするってどういうことなのか、私もなんか全然ピンとこないままで、よくわからないままでずっときていて。
まあでも、とりあえずの言える事を言うと、始まりがあって終わりがあって、っていう。入り口があって、展開があってそして出口があって、
また展開していくということとか。枠の中の、内と外がある、この切り取られているこれが作品です、 この切り取るっていう行為が作品にするっていうことだって言えるかもしれない。踊りってすごい曖昧じゃないですか。 例えば写真撮るだったら、バシッて撮れば、この中に収まって、焼いて、そしたらもうこれが作品ですって言えるけど、 振り付けしてその動きを覚えていつでもそれができれば、じゃあその振り付けが作品ですって言えるのか、
そのモチーフとなる感情とか経験みたいなのがあって、それがすごく明確にあって、 そして動きがそれに従っていつも違う動きだったり違う展開をしても、そっちのもとのかたまりのほうがあれば作品になるのか、 なんかその、パフォーマンスって…そのとき限りのものだからやっぱり。
作品にするってどういうことなのかっていうのは、すごいいつも考えてるんですけどね。
大倉さん自分で例えば、ソロでやるときに、これすごい興味があってまだ全然聞いてなかったことなんですけど、どういうふうに
いっこの公演するときに、なんかしらのまとまりができる?それはどういうふうにしてひとつのまとまりにしていく…?
大:すごい具体的な話でいうと、前半が何分あって、ここで暗転いれて衣裳これで、 ここで転換してこの音使ってこうやってここで照明…っていう具体的な作りのこと?
神:具体的な作りのこともそうだし、でもなんでそういう流れになるのか…。
大:そう!それって、答えようがけっこう、ない、っていうか、 私、多分、皆さん、うすうす…前からご存知の方は知ってらっしゃると思うんですけど、
すっごく、いっこのソロからいっこのソロ(企画制作から立ち上げる自主公演としてのソロ)をやるスパンが長いんですよ。
数年に一回ぐらいしか自主公演はやらないですね。 なにかこう、自分の中では、私、テクニックとか、新しいテクニックをどんどん覚えて新しいアイデアを
ポンポンポンポン出してやっていくほうじゃないから、 こう、自分がこう~やって生きてきた体験とかそこで理解したりしたことがからだと繋がって、
からだ自体がほんとに変わっていく、からだの質そのものが変わっていく、っていうところからじゃないと、全然、新しいっていうか、
全く違う新作みたいな、必然性があんまりないんですね私の中で。それで、すごく内側のイメージを中心にしてやってるけど、
外から観てる視点っていうのもあるの?って聞かれて、で、衣裳とか音とか決めるときはあるんですよ確かに。
けどそれは、自分で決めてるとは言いがたくて、こう、もう、そのように事が進んで行くという感覚のほう、衣裳もバーンって見つかったり、
音もそのことを、どうしようかな音のこと、って思ってたら、 あ、このCDのジャケがいいからきっとこれかもしれない、と思ってパッて選んで来たり、
ほんっとにそういう感じで、あと夢で見ることあるんですよ構成を、夢見て目が覚めるのか目が覚めた瞬間に思いつくのかわかんないけど
バッって起きた瞬間に、『んー、あそこ10分のあとで転換!』って出てきてんですよ
会場:笑
大:で、そっかーー!!っていって、バーッて書いて、で、「ん~、なるほどね」って言って。で、そっちのほうがリアルなの。
頭で考えてくとごちゃごちゃするから、もうあの日こういうふうに朝起きた瞬間そう思ったからこれでいい、っていうとこをベースにして
パッパッパツてやってったり、うん。なんかねその、誰がこう、どういうふうに作品に…、作品になっていくのかっていうのはあんまり…、
無意識というか…、やって来ることと自分の必然とがだんだん曖昧になってくんですよ、うん。だから、作品つくっているのか、
こう、一生懸命出来てくるものを、私は一生懸命こう、なにかこう、塩梅していってるのかっていうところがあるんですけど、 ほんとに、頭で考えて、
ん、次はこうだな、これはこうだな、とかっていうよりも、あ、あ、あ、あ、っていうことのほうが多いっていうか。
でもその思いつきのうちの半分ぐらいは捨てるんですよ、ん、ちがったー、みたいな感じでピックアップしていくんだけど、そのときもこう、
疑いがない感覚ってあるんですよ、ん~こうかな~?こうかな~?やっぱりこっちかな~、って選ぶんじゃなくって、 ある日突然、ん、これだ。これだ。って言って、”理にかなう”ところで。
神:でもその感覚が来るまで待つ?どっちか、例えば二つか三つか選択肢があって、今わからないときは…
大:うんうんうん、そう、待ちますね。直前になって決まるときもあるし。 こないだの5月のソロ公演(『明るさの淵』@テルプシコール)で音3つぐらい迷ってたシーンがあって。
友達の家に行って、わあ~音どうしよう~ってCDかけてたらその友達の2歳になる子供がそのうちの一曲がすごい好きで、 その曲になるとノリノリになって踊って、繰り返しかけてって言うから、じゃこの曲にするわって選んだり。 そう、そういう感じです。だから迷ってたら自分では決めない、迷ってるうちは。 けど、腑に落ちる瞬間みたいのが来たら、そのときはわかる、なんか。はい、って。その繰り返し…
だからあんまり構成とか作品ってことが………
神:でもそのなんか、状況っていうか、具体的に、例えばこういう情景っていうか、こういう場所にいてこういう道のりを経て来てみたいな、
なんかそういう手応えのあるイメージがある
大:そう、それはもうからだの変化の中で自然に出て来るもの…からだとか、意識とか、考え方とか…
神:聞いてると、何年かのそれまでの経験の総決算みたいなことを、こう、節目節目でこう…やりながら進む、みたいな感じが…(笑)
大:笑!う~ん、そういうところもね、あるかもしれない、っていうかある程度蓄積、タメがないと、なんていうか、ねえ。 で、感覚っていうのはあるんですよ、
そのときによって。その感覚をもとに何回も何回も稽古してると自然と、何回やっても25分ぐらいになるわ、このシーン。 ってなったらこのシーン25分でいきます、って決める。 でも、その、考えてる事とからだがその間に時間を経て変化していくことでしか、
私の場合テクニックでこうやって…って、外から教わらないから、
自分のからだの細胞とか自体が変わっていかないと踊りが変わらないのね、うん、そう。それまでは…待つ、っていうか。
神:8月のソロ(『ブルー・ガール』@d-倉庫)も見て思ったけど、待つときの肚の座り具合っていうか(笑)それがすごい特徴だというか、 大倉さんの強みだっていうふうにすごい思うんだけど…。 そっか。なんか私、作品を作るとき待つっていうことがなかなかできなくて、ソロとかだったらまだ、自分のいっこの動きの中で、 これだっていう感触が来るまで待つっていうことはできるけど、多分その作品、例えば曲を選ぶにしても、シーンの長さを決めるにしても、 その大倉さんの言う、待って、これ、っていう、つかまえる感じはまあ、なんとなくわかって、でも多分それと平行してすごい頭でこうなったら
こういう意味が生まれるからここはちょっとまずいからこうちょっと削ってとか、これはちょっと入れ替えてとか、これはちょっと長過ぎるとか、
すごいその作業を平行してやってるから、一回チャラにしてちょっと待って眺めてみて、それでまたパッてとる、っていう…
多分どっちもやれたらいいんだろうな、って。
大:そこでこう、浮かび上がらせたい感じってあるんでしょ?神村さんの中で、こう、そういう色んな作業っていうのはあるけど、なにかこう、
メールとかのやりとりしてて(感じたのは)、やっぱり、すごくその、地続きなんだけど遠く隔たってるとか、 日常なんだけど、ポッとなんか浮かび上がって隔たっている感じとか、そういうのをすごくやりたいんですよね?
神:そうですね
大:そのために、色々なそういうことがあるっていうことなんですよね?
神:そう、うん。昨日は踊りをどうやって発生させるかっていうことを話して、 まあでもいきなりこう作品にどういうふうに納めていくかっていうことを、今日は、話の方向性としてなったんだけど、 明日もまたこの間のことっていうか、かたちに納めるっていうことと、
あと、それでもその、そのときの実感というか、そのとき一回限りの感覚っていうのをそのつど再生させていくっていうことの二つを、 昨日の話の「かた」の話とかとも繋がると思う、そういう感じでまた明日に繋げていけたらいいなと思います。 じゃあ、最後、なにか質問とか、意見など、ありますか?
質問:大倉さんが「シーン」って言ってたのは、ここは25分、何回やっても25分、っていうまとまりのことをシーンって…?
大:あ、言いました、そういう意味で言いました、はい。
質問:神村さんにとってのそういう「シーン」みたいな考え方というのはありますか?
神:なんか、基本的にこう「飽きるまでやる」みたいなのがあって(笑)
会場:笑
神:まあソロの場合は。うん、あとはなんだろうな…。あんまり…明確にこう、三部構成、とか、二部構成っていうよりは、
ずるずるずるずるなんかちょっとずつずれて次の展開にいくっていう、そういう流れを私はすごい憧れるんですけど、うん。
なんかその、シーンを繋げなきゃいけないみたいな、Aというシーンがあって、Bというシーンがあって、 なんかすごく唐突だからここを上手く繋げなきゃいけないっていう思い込みがあって、でもそれは別にいらないから、 ただこれいっこやって、飽きるまでやったらそこでパッて捨てて、で、また別のとこ行って、次のことやって、みたいな。 その、ひとつの時間の流れをひっぱっていくっていうよりは、ただ、時間じゃなくて、
なるべく空間的な配置にしたいみたいな感覚があって、うん。 でもなんか、最近は、ただ切って捨てりゃいいってもんでもないな、っていうふうに
また思ってきてるんですけど(笑)まだよくわかんない(笑)
大:(笑)神村さんそういうやり方でこう、浮かび上がらせてくけど、 私の場合はあれでしょ、その、浮かび上がらせるまでに、のために、 最初に外の事考えないで自分の内側にガア~ってなって、浮かび上がらせていくっていう、 だから同じように何かを浮かび上がらせたいんだけれども、
神:そう、そこが、入り口が全然ちがう
大:うん、神村さんパッパッパッパッパーってやってく中でスポーンっていきたがってる、そういうようなところなんですかね。
神:そう、作品の作り方自体も多分違うんでしょうね、その違いがそのまま多分出てるなと思った…うん。 なんかこう、いっこに集中してそれをやり続けてれば次の展開はきっとここにフッててでてくるんだろうけど
大:そうそうそうそうそう!!
神:それはなんか、頭ではわかる、んだけど、想像もできるんだけど、なんとなく。でもなんかこう、できないんですよそれ(笑) 体質的にっていうか(笑)
大・会場:笑
神:なんかいっこやってても絶対すごい他がいろいろ気になって、あれやってこれやってあれやってこれやってみたいな、
そういう方が逆にこう、あっちやんなきゃっていう頭がある方が、すごいここに集中できたりとか、っていうのがあるので(笑)
大:ふうう~~ん、そっかあ、なるほどね。じゃあそこがすごく違い。いっこの事をぐう~ってやって、絶対途中でやめないで、 次の展開が来るまでは自分の意志には選択させない、っていうところ、私はそこのところだから、うん。 そこなんでしょうね、同じ物を、なにかその、浮かび上がらせたいっていう
感覚あるんだけど、うん、それぞれの。見てる印象も全然違うんでしょうね……あ、もう時間も押してるんでこのへんで。
神:はい、じゃあ、そんな感じで、今日は終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。
大:ありがとうございました。
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9月18日(3日目)【話す→同時に踊ってみる】
神:まず一日目は冒頭で特にテーマは決めずにそれぞれにソロを踊りました。
それをお互いに観合って、実際にどういうことをやったのかっていう話をして、どこから踊りを引き出すか、というようなことを中心に、
すごく踊り手の主観的な内的な感覚から、共通する部分というか、重なり合う部分を探すような感じで話が進んでいって…。
そこでひとつ出たのが、”内と外が繋がるような感覚”をすごくそれぞれ求めているっていうのがあって。
でもそのやり方は全然違う、入り口が全然違うやり方で…。
二日目は、初日の内容をうけて冒頭で話をしました。
あと、それぞれお互いひとつずつ何か自分の作品、自分のダンスと共通するものを
感じられる作品をなにかひとつ持って来ようということにしてひとつずつ持ち寄って
大:それも、前日の流れをふまえて…
神:前日の話の内容から繋がるようなものを探して来て。
事前にお互いに往復メールのやりとりもしていて、昨日、一昨日で新しくやりとりをしたメールもあるので、よかったらお読みください。
で、大倉さんが持って来た題材が、森山大道の木古内というタイトルの写真、
森山大道《木古内》1978年 |
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「蛙の死」 萩原朔太郎
蛙が殺された、
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしよに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた
月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。 |
私が持って来たのが萩原朔太郎「蛙の死」という詩で、なんでそれを選んだかっていうのもそれぞれ説明しました。
例えばなんでこれを私が選んだかって言うと、どんどん視点が切り替わって行くところ、 最初蛙がいて、それを取り囲んでいる子供がいて、そして血だらけの手が上がって、そして月が出た、って さらに上に行って、丘の上に人が立っているというところで逆に上から俯瞰する視点にまた切り替わって、
帽子の下に
顔があるっていう、またこう、クローズアップしていくような、ずっと動き続けている視点があって、 それが結果的にひとつの、ある情景が浮かび上がって来るっていうのがすごく共感できるなって思って。 あと、残酷なんだけどこう、すごく突き放して観ている、何かの感情っていうよりはただ、そういうものです、って こう、物みたいに置かれている感じがすごくいいなと思って。
あと、大倉さんの踊りともすごく共通するなと思ったのが、移動して行く、視点がどんどん切り替わっていく
けれども、偏在している、視点がこう、全てに渡って偏在しているような感覚とか、感情がきっとあるんだろうけど それが、どこにも固まっていないで、それもまた散らばっていくような感じとか、 それはすごく大倉さんとも共通するものを感じたのでこれを持って来たんですけど。(笑) そしたら大倉さんはなんか
大:神村さんっぽい、しか言わなかったんですね(笑)
神:そういうコメントしか最初出てこなくて(笑)
大:主語がいっぱいあるとか言って
神:主語がどんどん変わって行くって(笑)
大:主語が変わって行く感じが神村さんっぽいと、私は、はい。
神:じゃ、大倉さんがなぜこの写真を持って来たかの話を…
大:私がなんでこの写真を選んだかっていうと、もともとすごく好き、っていうのがあるんですけど、 前日の話の中の共通点で、内と外が繋がってく感じっていうのを神村さんさっきおっしゃったんですけど。
それは神村さんの言葉で言うと”自分の内側と外側が区別がなくてフラットになる感覚”。
私の感覚では、内側から砂みたいな粒子がブゥワ~って来て、
外側に吹きこぼれていく過程でからだの輪郭線が全部淡くなって同じような砂の粒になってザアーって、なっていく感じ。
で、そのまわりの粒子とか壁の粒子とか、こういう物とかの粒子と区別がつかなくなっていく感じ。
同じ感覚のことをそれぞれの体験の言葉で言ってる。
そのことと同時に、輪郭、輪郭線はバアーって消えていくんだけど、同時に浮かび上がって来るものがある。
この二つの感覚っていうのがもうひとつ共通項としてあるんですけど。
で、この写真、犬がスーッと、この背景のほうにこのまま消えて行っちゃいそうな感じ、
だけど、確かにここに犬がいて、犬が今まで確かにここに存在して生きてきた時間というか・・・
今も生きているけれども、その、生きてきたこと、の存在というか強さみたいなのも同時に感じるので、これを選んで持ってきました。
神:で、お互いに持ち寄った題材から二つのソロをそれぞれ
大:写真で神村さんのソロ・大倉のソロ。詩で大倉のソロ・神村さんのソロ、それぞれ10分ずつ、というふうに、二日目は踊りました。
神:どう(踊りを)引き出すかっていうことはもちろん全然違ってたんですけども、いっこ言えるのは、
私はすごく、この写真を見るときとか、この詩でもそうなんですけど、こう、空間的にみるっていうか、 この、画面の中でこれぐらいの隙間があって、こういうラインがあって、ここでこう切り替わっていって、って、 ここの中で見ようとするんだけど、大倉さんはこの写真を見るときも、その前後の時間
をみていくっていうか、 この中を垂直に貫くものを想像しようとする感覚があって。
この詩についてもそうだし、なんかその感じが、すごく面白いなと思って。(笑)
「蛙の死」とかも、なんか最初どうしたらいいかわかんないみたいな感じで(笑)
大:はい、はい、
神:でもその、蛙を殺す感覚が、なんか”可愛すぎて”っていう、
大:うん、そう、なんか、どこかで自分の中でリアルに感じたことのある体験と結びつかないとなかなか私の場合は。 最初どこをとっかかりにしていいのかわからなかったんです、わからないっていうのは、意味がわからない、っていうのじゃなくて、
ほんとに昨日ポンポンって持ち寄ったよったものだったので、それを考える間もなく、ねえ。 音も何も決めてきてなくってどういうふうに始めるかも決めてない、そういう意味で、
どこからとっかかりにしようかな、っていうことだったんですけど。 踊ってるうちに、なんていうのかな、私の記憶っていうか体験として、 あっ、て、ここで繋がれるかな、って思ったことがあって。
私は手乗り文鳥を飼ってたんですけど、すっごい手乗り文鳥をいつも手に乗せてて
にぎったりフカフカしてるとすごい柔らかくって可愛いんですよ。 だからこう、あまりにも可愛いから、わああ~っ、可愛い~~っ!って、ギュウーーーーってやりたくなっちゃうんですよ。 でもそしたら死んじゃう~、でも潰したい~、みたいな、可愛すぎて潰したい~、みたいな、
変なこう、殺したい感じ、可愛すぎて殺したいみたいな
神:笑
大:その、感覚、かな、って、そんな話でねえ(笑)
会場:笑
大:と、いうことと。でも今までだとそこにこう執着しちゃうっていうか、そこから一点に入り込みたいみたいなところが、 多分私今までそうだったと思うんですけど、 神村さんと初日と、この、詩を持ってきて、神村さんはこう感じる、私はこう感じる、っていうやりとりを直前にしたときに、
あ、そうかーと思って。そこの感情だけに居着かない、神村さんよくひとつの何かに居着かない、ひとつの状態に居着かない、
ってこと言うんですけど、
感情はそこに、その、可愛すぎて潰したくなってしまう感覚っていうのはあるんだけど、 でもこう、もういっこの視点をポンポンポンポンともうちょっと、居着かないで、月が出ている方向にこう、上げていくっていうか。
昨日10分、即興で踊りながらおぼろげに感じてきたことなので、ちょっと上手く言葉にできないし、 昨日それをやりきれたっていうことじゃないんですけど、そういうことにすごく気がつくきっかけになった。 だから、居着かない、っていう、そのひとつの状態に居着かないっていうこと?
で、わあ~ってあるんだけど、同時に何かが、視点がポンポン切り替わっていって・・・。 あ、ちょっと言葉になんないです、ごめんなさい。
でも、そういうことに気付くきっかけ、ヒント、すごくありました。はい。
だから、垂直にこう、視点はこう切り替わっていってるんだけど、 意識のラインとしてはドン、って、ここにあってザッと昇って、昇らせていくような。
神:そこのルートはもう、どっかに逸れたり、っていうことはない?
大:はい。
神:私は逆で、どんどんどんどんこう、ひとつの場所にいると、逆にそれに囚われちゃって、身動きがとれなくなるので、
ひとつやったらそれを捨てて次に移ってっていう。どんどん意識を散らしていくような感じで進めていくんですけども、 この写真ををやったときは、最初どうしようと思って。 で、大倉さんの話で、ここに流れている時間を再生していくっていうような感覚を聞いて、
あ、じゃあここ(写真の中の橋)をとりあえずこう歩くっていくことを(笑)やろうと思って、 ここの道の手前から犬の間を通って、ドラム缶のとこから通って
大:しかもすごい具体的で、右側を通り抜けて~とかって、もう、通る位置とか隙間までリアルなんです。
神:笑。そう。それでまあ、橋通って、とりあえずこの橋の向こう側まで行くみたいな感じで。その通って行くときの皮膚感覚っていうか、
隣に何があってとか、橋の上に来たら空間が開けてとか、山に近づいて、みたいな。なんかその、広い場所にただ座ってるときでも、
広い場所にポツンって座っているときの身体の状態と、全く同じ姿勢であったとしても、 すぐ近くに壁を感じて座っているときの身体の中の密度みたいなのって変わる。
空間によって身体の中の、その、外をどう感知するかによって、 身体の中の状態っていうのはすごい変わるな、っていうのが いつも感じていることなので、それを、やりました。という感じでそれぞれのソロがあって。
そのあとのトークでは、どのように作品として、その、作品にする、って、踊りを発生させたあと、それをどうひとつのまとまりにしていくのか、
っていうことを考えて、どう作るか、っていうことも、もちろん、お互いに話を聞いてみたら全然違っていたんですけれども…。
じゃあ、そこから今日は話を…。具体的にどういうふうに作っていくのか。例えば、衣裳は、どう選ぶのかとか、
なぜこの音楽にするのかっていうことを話していきたいと思うんですけれども。
じゃあ、大倉さんは例えば…
大:例えば、じゃあ、そうですね、いちばん最近の私のソロを題材にします(2010年5月『明るさの淵』8月『ブルー・ガール』)。
衣裳から言うと、できるだけ、シンメトリーと垂直・平行のラインを作らないように、っていうのを心掛けます。
衣裳は、ひとつの状態に居着かないっていうことをすごく意識するんですけど。 基本的には、自分でこの衣裳着ててなんかちょっとツッコミいれたいところが4~5カ所あるっていうことを大事にします。 あの、見えないとこでも、ほんと、外から見えないんですよ、 それでも、変なパンツを中に履いてたりとか、裏地になんか勝手に細工したり、 そいいうことをするんですね。 それは、その、居着かないためになんです。
すごく私は内側に没入していったり、っていうこととかあるけど、 でも、そのかわり、衣裳とかで、左右対称を外したり、こういう、例えばワンピースとかでも、
神:なんかラインが入ってたり?
大:そう、ラインをかたっぽだけ入れたり、もしくはこう、裾がこうちょっと、微妙なんですけどね、波打たせたりとか
神:ビジュアル的な効果っていうよりは、自分に対する違和感を発生させるため?
大:うん。”かっこつけられない格好”っていうのを選びます。 自分が、「これ見て、どう?」みたいな(いい)格好しちゃうと自意識でちゃうんで、 そんなこと言ってる余裕がないぐらい、ちょっと変なの私、今日この格好、っていうようなところを何カ所か、あえて、持ちます。
そうすると、自分が自分が、っていう自意識が出ないいっこの、お作法みたいなものです、うん。 自意識出ちゃうとねえ。オレが!いいでしょ!みたいな感じになっちゃうと、(いい状態に)入れないので、うん。
神:あと、白塗りするでしょ?
大:はい。
神:私、前から聞こうと思ってたんだけど、白塗りをする準備、白塗りをする時間っていうか、塗る行為っていうことが、
踊る前に、こう、全部を、くまなく塗ってるんですよね?その、塗る、っていう行為でその時間をかけることで、
なんていうか、身体に対して意識を均等に貼付けていくみたいなこととか、自分の身体をあらためてこう、異化するというか
大:異化、そうですね、それはあると思う。
神:そういう効果がすごい、まあ、ビジュアル的なことももちろんあるけれども、 この、踊り手の身体に直接作用するというような機能が白塗りっていうことはすごいあるんじゃないかなって
大:うん、あるんですよね。自分が経験してきている中では、神村さんが言ったその二つのことは挙げられる。 でも、塗ってく間にその、なんていうの?ある状態に入っていくようなぐらい?そこまで時間がとれたらいいんだけど(笑) 実際は直前までわーわーやってて本番だーみたいな感じで(笑)。その状態を作るっていうよりは緊張してる暇がないみたいな。
神:変に準備しなくてすむみたいな
大:そうそう、変にあがってたり考えたりする余裕がないっていうことも結構(笑)あるなあと、思いますね、私の場合はね(笑)。
うん、でも、確かに、神村さんが言ったとおりのこととして、捉えてる。その、舞踏の最初がどうだったか、っていうことは正確には
その頃を知らないのでわかりません。
神:私が衣裳を選ぶ時は、私もその、自意識というか、が、出ない状態の服を選ぶようにしていて、 ちょっとその、みすぼらしい格好を選ぶんですよね(笑)。なんかこう、衣裳衣裳したものをピカッと、パリッとしたものを着ちゃうと、 なんかその、舞台に乗せる、見せるからだを別にこうあらためて作っちゃう感じがするので、 なるべくこう、まあ、客に、というか、人前に立てるギリギリオッケーなぐらいのラインをなんかいつも探してる感じで、 であとその、一人、ある個人、なんか、名前を持ってこういう人物、っていうんじゃなくって、なんか一般的な人の影みたいな。
全部の人の平均値をとってなんかこういう感じっていう、名前のない状態に自分を置けるようなものを結構選びます。
大:同じなのはその、自意識出ないためのお作法みたいなところが
神:そうですね。
大:なるほどねー。
神:体に対する違和感みたいなのって、そうですね…それはあんまりないのかな… 逆に私なんか体に、あんまりそれをやると、逆に自意識、みたいな感じがあって、
大:ああ、違和感…
神:そこに関してはそれをすると、ダメな感じが…むしろ、なんだろうな、ライトとか、
大:ライトって、照明?
神:そう、照明とかは、なんか、こう、人前にバーンと立つのがこう、すごい苦手だから、基本的に。 こう、なるべく薄暗い中でこっそりやりたいみたいな(笑)感じがあるんですけど
会場・大:笑
神:あの~、でもそれをすると、すごく安直な感じになってしまうので、 なるべく晒せる状態で、明るい状態で、全身がくまなく見える状態っていうのを基本にして。 あとは舞台照明だったら、いわゆる舞台照明だとこう、ラインがバーンって出たりとか、包み込むような光ももちろん作れるけれども、
ほんとにこう、物として光が入って来るみたいな感じでも使えるので、 例えば、こっちからバーンって切り込んで来る光に対して、じゃあこっちに行くとか、それと平行な意識を持つとか、 そういう空間に意識を向けるためのひとつの道具として使ったりもします。 自分を晒す状態にするというのは、照明の使い方に関しては…?
大:そこはそう、同じところがあって、私も、すごい、薄暗い中とかピンスポットとかでぐーっとある状態に入っていったら それはtoo muchでしょう、っていうかね…。だから白昼の中で何かおかしなことが起こっているんじゃないか、っていう、 白昼堂々おかしくなっていく、っていうようなことであったり、あとはやっぱり、どっかで追い込みたいんですね、自分を。 逃げ場ないからね、あんな明るい光の中でやったら。暗くなったりブルー光線とか入ったら情緒的になっちゃうし、 観ている人たちにもイメージがついちゃうけど、でも、明るい中でおかしくなっていくことで自分をどこもさぼれないような、 そういうところのほうが、やっぱりこう、自意識でないんだよね
神:うん
大:うん、そういうことですよね。その、情緒とか自意識とかできるだけ出さないように。でも、神村さんみたいに、
照明のラインを物としての役割としてとらえるっていうことは私はなくって。でも、いろいろ考えるんです、こういうラインを出して、 幅はこれくらいでとか、そういうこともソロのときに関して言えば、がっつり決めちゃうんです。決めるんですけど、
でも、実際本番で舞台にあがったときに、それを物としてとらえなくって、 私は内側の状態がある状態に来れば奇跡のように照明の入る角度とか
自分との位置が奇跡のように全部パパパパッて生まれてくるということを信じているので、だから、照明と関わろうっていうことはなくて、
それは全部自分の状態の結果、っていうふうに。だから、実は状態が初日と二日目とかで違っちゃって、 初日は全部上手くいったのに二日目は、確かに構成どおりいってるんだけど、 なぜかこう1目盛りずつ歯車がずれているようなときもやっぱりあるんですね。でもそれは、舞台なのである程度構成してるんですけど、 でも、ほんとにバーンと全部が奇跡のように、全部がグワンっていくときといかないときっていうのは全く同じ構成とか照明でも違って、
それはやっぱり踊りとか、踊り手の意識だけじゃなくてみんなの意識とかの歯車がかみ合ってるかどうかっていうとこだと思うんですけどね。
そういう状態をやっぱり舞台のスタッフの人たちと一緒に作り出していけるかどうかっていうのは、自分にかかってるなって。
自分がどういう状態で、ちゃんとスタッフの人と接することができるか、っていうところから生まれてきてると思います。
全部何かが起こってくるように、自分は、自分の状態と周りの状態をいい状態に上げていこう、っていうことをやってる、うん。
神:なんかその、大倉さんって、例えば文章を書くときでも、私はすごい考えて考えて、最初から書き出せなくて、 どんどんアイデアだけ書いていって、 で、これはどういうかたまりになるのか全然わからない状態で、 書いてくうちにだんだん収まるところに全部が収まっていくっていうふうに、 作品もそうだけど、そういうふうに作っていくんだけど、 大倉さんは一気に、書くときは一気に書くっていう感じで、 でもその、別に何も考えないまま書き出すんではなくて、その前の段階で、そのもとになる考え、すでに全体像があって、 それがこう十分出来上がってから、それをバッて開けて、ひといきに書く、 だから書く行為がほんとにもう出来上がったものを出していく作業っていう感じなんですよね。 だからその感じが、舞台の作り方にしても、一貫してあって面白いなと思って。
そうそう、あの、音とか…光をさっき、話してたときに、皮膚の外で、衣裳にしても、 すごい皮膚感覚として、自分の周りを覆っているものとして捉えているところがあるなと思って。
大:あ、そうですねえ、そうだね…
神:音に関してもきっとそうで、やっぱり、大倉さんをみて私は、すごい”切り離されている”感覚をすごい感じて、 観客からもこう、ここだけ切り抜かれてここだけ異物がボンッて置かれてるていうふうにみえるんですね。
なんかそれってけっこう、周りの皮膚で全部感知して、そして自分の中身は中身で、別の進行が、別のことが進んでいるっていう、 なんかその区別がすごくクリアに常に感じているのかな、って思って…
大:それは多分音とのことではよくやってると思うんですけど。あ、もちろんいろんなパターンがあるんですけど、 今の話されたことを私は、音との関わりでは、すごく意識的にやっています。
例えば、ほとんど動いてなくてバアーってただしてるだけでも、周りだけガアーッてノイズかけてたり、
とってもゆる~い曲をかけてたり。
『My Way』(Sex Pistols)で二回(2008年と2009年。それぞれ天狼星堂公演/大森政秀構成・演出)
踊ったことがあるんです。師匠とメンバーとの作品の中での10分ぐらいのシーンで。
一回目(2008年)は、最初滑稽な動きでメンバーのワタルとバアッと動いて、で、転ぶの、途中で。 そのあと、『My Way』がかかってきたら、ガーッてとにかく動くっていうのをやったんですけど。
『My Way』の曲は速いんですよ、だから自分の体の中の加熱してる速度が一瞬でも曲より遅くなっちゃうと もう、成立しなくなっちゃうんですよ、踊りが。その場の中で。 だから、最初っからもうフライングギリギリぐらいの状態で、曲が入るよりも一瞬前にスタートかけて、
そのまま絶対追いつかれないように走り抜けて絶対後ろ振り返んないで、 すぐ自分の後ろの辺には曲に今にも追いつかれそうな息づかいを感じながら私が一位でゴールするー!みたいな感じで、 ザーッと、速度を上げてくんです、体のね。
二回目(2009年)では、ただ、壁から、3~4分かけて『My Way』が流れている中、 ただ、ふう~っと壁の方を向いているところから振り返って来るだけ、っていうのをやったんですよ。
外側の速度じゃなくて、(体の)内側の粒子がズズズズズッて、最初このくらいの粒からこのくらいになってこのくらいに……って 粒をどんどんどんどん細かくしていく速度を、とにかく速くするの。
だから、外側では『My Way』、自分の内側ではものすごい速度でつぶつぶになっていってるんだけど、 でも、外側に(動きで)出さないで、ただ、ひゅうって、つぶつぶになっていくことの結果、ひゅうって振り返るとか、
それをこう、音との(関係の)中で、競い合うように速度を持たせたり。
なんでそういうふうに私がしたいかっていうと、 外側では、例えば、戦争があったりいろんなことがあるんですけど、この世の中には。
だけど、自分の内側がちゃんと、加熱して豊かであること、 まわりで何が起こっていようと自分の内側が豊かであるっていうこと絶対大事。
っていうことを、言葉で説明したり踊りで伝わってる伝わってないっていうんじゃないけど、 まわりで何が起こってたって、機嫌がいいのよ、っていうようなことであったり。
それがこう、浮き上がって、周囲と、この人の内側が何かが違うというか、 そういうふうに感じられる印象にはなる、かな?っていうふうに、私は思ったんですね。
ま、いろんなパターンがあるから、いちがいには言えないんだけど、でも、そういうことです。 そういうふうに、(音を)結構使ったりする、まあ、今のはひとつのパターンです、はい。
神:私はその、照明とか音とかを感じるとき、自分の外というよりは中まで入ってくるかどうか、みたいなところがあって、
例えば、光を感じてそれを利用するときも、自分を通過して後ろまでそれが伸びていっていたりとか、 音に関しても、私のこういう境界を無視してここにもここにも入ってくる。 そういうふうに自分をどんどんなくしていく方向に使っているような感じで。
外側と内側とつなげたいみたい、内側と外側の濃度を均等にフラットなものにしたい、という感覚は2人とも、すごくそこは似ていて。
でも捉え方は、違う。例えば言葉使いは、ここに隙間があってこれくらいの距離が空いている。私は距離と言う。 そこに私はすごくリアリティを感じるんだけど。でも大倉さんはそれに対して一体感、という言葉を使う。
大:そう、同じ感覚を指してるみたいなんですけど。こうやって、触れちゃうとわかんなくなっちゃうんですけど、
このぐらいの(触れそうで触れないような)ところって、
何かもわっとするじゃないですか、もわっと(笑)。 触れちゃうと、あ、ブツだなってなっちゃうけど。だからほんとは、この机と私の手は
どうやら違うものなんだけど、ここらへんのもわっとしてるところでは何か一緒になれるような気がするんですよね、ここのゾーンで、ふわっと。
だから、私はそれを一体感て、言う。
神:私もこう・・・動いていて結果的にそういう感触を得ることがあるんですけど、 この空気をどうにかしようと思った途端に、そういう演技になっちゃって、私は。
大:あ!しようとしたらだめよ~。そうだよーそれだけはだめだよー。(一同笑)
神:そうそう、それは結果的に得られる感覚であって、それをどうこうしようとすると、違うんですよね。
大:そうなんですよ、どうこうしようとした途端におかしくなるから、 その意識を出さないために、 色んな手だてを照明とか音とか、わーっと外からやって、というところは一緒だよね、出てくる形はすごく違うけど。
神:あとそう、さっき話してた話の中で、(大倉さんが)ビデオ見ないっていうことを聞いて、けっこうびっくりして。
大:びっくりなんですか?
神:納得はできるけど、そうなんだーと思って。
大:この中で、踊りやっている方やってらっしゃらない方とかいらっしゃると思うんだけど、 1つの作品を作る過程の中で、稽古をビデオに撮って見返してチェックすることはないの、って聞かれて、ないよって答えたら、 すごいびっくりされたんですけど。そんなことしたことない、って逆に私がびっくりしちゃった(笑)。
神:私は、すごい不安だから、一応チェックするんですよ。自分の中でリアルに感じている感覚が、 実際に外側にも現れているかどうかっていうのは、見てみないと分からないと思うから、 やってみて、それを見返して、ああここはずれてた、ここはあの感覚で良かったんだ、って照らし合わせるために、使うんだけど。
大:私、なぞらないようにするために、見ないんですかね。見ちゃうととらわれちゃうからね。 次にやるときに、その時自分が目で見た印象って、どうしたって消すことできないですからねー。 だからそのために見ないのかな。
神:でも、人に意見をもらったりっていうことは時々する?
大:そうですね、本番近くなったら見ていただいたりとかはするけど、 でも見た目がどうこうというのはあんまりないからね、見てもらったとしても。
神:でも、すごく形を客観的に、どう自分が実際に見えているかっていうのを、すごく冷静に見てる。
大:見てます。めちゃめちゃ見てる。
神:だから、それがどう両立してるかっていうのがすごく不思議で。
大:うーん。
神:例えば、(大倉さんは)人と話をたくさんするって言いますよね。 だから、そういう人からのリアクションを通じてそのイメージを育ててきたのかなとか。
大:どうなのかなー。
神:ソロを作り始めた最初はビデオ見て、とかそういうことではないですよね?(笑)
大:ない、それもないそれもない。だってビデオカメラないんですから、機械苦手だから(笑)。
えー、どうしてそれ(観ている視点)を持てるかっていうと、たぶん結構これ初日の話とか、 2人が共通して持っている感覚、全体がフラットになる とか境界線がない感じとか、そこにまた行くと思うんですけど。 そういう状態になっている時って、毎回行けたらいいんだけど、残念ながら行けないこともあるよね、 でもいい状態、マックスの状態というのを仮定して話を進めると、その時って、自分の肉体と肉体に付随している精神と、
もうひとつの、観てる意識の三つがちゃんとぱーんと噛み合ってるんですよ。 で、そこで全てがいい状態で、奇跡のようにことが起こっていることもちゃんと知覚できながらぱーと進んでいく感じがある。 私は内側が過熱している状態って言うけど、内側のことだけじゃなくて、多分そういう自分の
中を作っていって、ある状態まで行くことで、あるところで三つがすとーんとつながって、ぱーと全部が見えていく感じ。
だから、観ている意識の視点からはちゃんと観えてるわけ。だから、そういうところじゃないかな。
でもそのへんは教わってやったわけじゃないから。 自分で、編み出して編み出して編み出し続けて・・・やってくうちに習得してったものだから、説明しがたい。 でも、大前提の意識として、自分のからだだけが全てじゃなくて、目に見えるものだけしかこの世にあるんじゃないんだよ、
ということからスタートしてる。目に見えないものっていうもの、むしろそちらに私はすごく力を(感じる)。もちろんどっちもなんだけど、
どっちが先か、ということだよね。大野(一雄)先生なんかは、魂が先で肉体が後からついてくる、とおっしゃってますけど。
私は、自分の感覚としては、やっぱり目に見えないもの、 意識…意識って言っても自分のエゴ、金がほしいとかじゃなくて、もっとでっかい意識。
それがまずあって。ようするにからだは入れ物ですね、器。そういう感覚。 だから目に見えないけど確かにある自分の意識とか感情って言うものとからだっていうものがあるっていう、 最初のスタートラインはそこに置いているから、そこからためつすがめつ稽古してきてるから、
そういう感覚がだんだん身についてきたのかな。
神:その辺の感じは、話としては分かるけど、ちょっと感覚としては全然想像つかないというか。なんでそこにジャンプできるのか、
ほんとにそこは謎だな。
大:いや、ジャンプしてるわけじゃなくて、多分もともとそれは当たり前に感じてたような気がする。
神:私は逆に形をまず置いて、(体を)物質として、 で、その中で勝手に自分が感じるレベルをどんどん変えていくっていうような順番ですね。
大:でも両方あるんですよね。
神:うん、両方あるけど。
大:形があるから入ってくるっていうか。例えばこのくらいのでこぼこしてる器に水を入れればこういう形になるけど、 こういうゆったりした器に入れれば水もこういう形で入っていくから。
神:そうそうそう。
大:そういうことですよね。どっちの方向からも、ためつすがめつ。どっちかに偏っちゃいけないけどね。
神:うん。
神:今、作品というか踊りをどういう風に作ってきたか、具体的にどういう手段を用いて、という話をしてきたんですけど、
じゃあ何を目的にっていうことになって、それは何回も今まで話に出てきた、内と外がつながっていく感覚、 自分の境界がなくなっていく感覚だろうと思うんですけど。それでもっとさらに遡って、じゃあなんでそういう感覚を、 私はもともとバレエをやっていて、大倉さんは舞踏から始めて、ていうところで、 全然ちがう動機でそういう感覚を求めるようになったのかもしれないけど、どういう感じなんですかね?
大:うーん
神:あの、初日に観に来てくれたダンサーの手塚夏子さんの話で、終わった後に話をしてたんですけど、 舞踏っていうのは何かに対する圧力であったり権力であったりするものに対する抵抗する力が根底にあるんだ・・
大:じゃないの?って言ってましたね。
神:で、そういう力がないと、それは舞踏と私には見えない、ていう話をしてて、あそうかと思って・・
大:じゃあ私のは舞踏に見えないなーって思いながら聞いてたんですよ。
神:え、そうですか?
大:うん・・、外側のことでは色々あったけど、それを受けて、結局自分で自分をがんじがらめにしちゃうんですよね、 自分の意識とかからだとか感情とか気持ちとかを。そういうことで葛藤してきた”自分に対する抵抗”だったんですよ、最初は。 外側のことじゃなくて、自分への。
元は外側のことで、例えば誰かと比べてコンプレックス持ったり、ショックなことがあったりとか、 そういうようなことで自分の中にいろいろできてきちゃうものだと思うんですけどね。 結局それは自分自身が作り出してるんで。もとはそれに対するアンチだったと思う。
それがつらいと思っていたことがあったから。二十歳くらいのときですけど。そこから、始まってると思う。 外側での出来事からの影響だったけど、結局自分自身の内面のことだから。 外側でそうやって何があったって、自分の意識が豊かであれば、ほんとはそんな風に感じることはなかったんだよね。 私がさっき、音のところで話したように、内側が豊かだったらいいんだよって。 みていて外側と内側が切り離されてるように感じるっていうのは、あると思うのね。 私は内面の葛藤みたいなところからスタートしてるから。内側ばっかりで外との関係がないじゃないか、って やっぱり言われてます、今までもずっと。でも今それを私は良しとしてやってるんじゃなくて、変わっていきたいですね。
神:なんか、私も最初はソロで作り始めて、だんだんグループの作品を作るようになってきたんですけど、 私も最初の頃は、自分ていうものをすごくシンプルに捉えてて、この体がとりあえず自分だみたいな。 とりあえずこれを置いたら一人でいることになるみたいな。 で、私のやりたいことをとにかくやる、っていうそこのところにまず集中することを始めて。 でもやってくうちに、自分がこれが好きだとかこの音楽がいいとか、
選んでいることも何かからの影響だったりとか今までの蓄積の中からぴょっと出てきたものだったりとか、 そういうことを段々考えるようになると、どこまでが自分で、自分というものの境界がどんどん揺らいでくるような感じがあって。 で、私もなんか、社会性というか、ない・・
大:ないよね、なさそうだもん(笑)
神:え、まあないんだけど、・・・まあね(笑)
会場・大:笑
神:でもまったく(社会から)孤立してるかっていうと全然そういうことじゃなくて、絶対その、社会活動してるとかそういうことじゃなくて、
大:いわゆるそういう意味の社会ですよ(笑)
神:絶対常に影響は受けてるじゃないですか、身体に対しても心に対しても。なんかそういうところを突き詰めることで、 自分の中で関わりを見ていくことで結局それはその社会とつながっているということに行きつくなと思って、うん。
で、私はじゃあどうかっていうと。舞踏が何かの圧力に対する抵抗とするなら、 私は踊ることで、抵抗っていうことを動機に置いているのかって考えると、それはあまりぴんとこなくて、 とりあえず自分の快楽っていうか、自分が感じたい感覚をどんどん先鋭化したいっていうのがあって。
で、その快楽みたいなもののさらに原因を考えていくと、
もともとやっていたバレエって、一応「白鳥の湖」とかあったら役柄とかストーリーがあるけど、 動きそのものとか身体の使い方とかは、物質レベルで作られていたりとか。 身体は空間の中でこの点をおさえているただの点で、挙げている腕はこのラインを示しているただの線、みたいな。 そういう、「私」っていうものじゃないものとして、もっと抽象化されたものとしてそこに立っていられるっているのがあるなと思って。
だから、なんか、お前は何者だみたいな、名指されることに対する恐怖みたいなのがすごいあって。
大:ふーん
神:人前に出て何かやったりとかしゃべったりとかもそうだし、名指されることの恐怖が常にあるんですよ。 見られることが怖いっていうのが。
だからその恐怖をどう扱うか、それをどう自分の扱えるものにしていくか、っていうことが最初にあると思います。
大:そっか。BALで批評書いたとき、私にとって、神村さんととにかく共振する一点が、 ばーって自分の内側と外側が区別なくなっていく感覚で、そのことに焦点を当ててこの批評も書いてるんだけれども、 批評って言えるかな?笑 まあいいや、何でそこにそんなに私が共振したかっていうと、
なんかね、すごく胸がぐーってひりひりして、自分の内側の泣きたかったようなことが ぐわーって出てくるような感じがその瞬間を見たときにして。
だから、神村さんもこうやってずっと淡々とやってるけど、その動機の根源て何か近いところにあるような気がしなくもなかった。
別にそれを表に出す必要も全然ないけど。
私がさっき言ったように、外に何があっても内側が過熱した状態になって、その上でばーって境界線がなくなっていくような、 要するに自分が居なく
なるっていうことですよ。お前は何者だって名指されても、いません、みたいな。 そういうところに行きたいのはやっぱり、私は色んな外からのことがあって、 これはだめだあれはだめだって自分の中にそういうものを築き上げちゃって、葛藤してた。 でもばーっとものとかも一緒になっていく。
例えば最近私、壁っていうものをよく意識したりするんだけど、 壁っていうのを自分で築いちゃった心の中の壁だったりブロックってイメージするんですよ。 そことつなげていくの。だから壁と同じようにふわーっと溶けていくことは、ただ動きとして、舞台でやるためにやってるんじゃなくて、
そういうことを積み重ねていくことと同時に、自分の中のそういうものと向き合って、ほんとはそうじゃなかったんじゃないか、みたいな。
今まで自分が自分に対して外からだったり、外と内側の関係で築いてしまったそういうものを、どんどん手放して。
だから、私は外側の音楽があって、ある状態になってるときに、今はまだ私の踊りがまだそこまでいってないから、 断絶とか浮き上がっていって別な感じっていうふうになるかもしれないけど、ほんとはそこの状態になったところで 何かと通じ合えたりつながったりできるんじゃないかって。 だから私は、一体感とかつながりっていう方向なんですよ、行きたいところは。
舞踏がもし、高度経済成長期とか戦後に出てきて、暗黒舞踏と言われていたときもあったけど、 何か社会に対する闇の部分(として)、そういう風に抵抗としてやったんだとしたら、今の私はおそらく・・・
今周り見ても、多くの人が暗いじゃないですか、自分の中が。
だから別々じゃなくて、つながりとか一体とかそういう方向に。そういうことを見ていると思う、自分の意識が、すごく。 だから、光に対しての闇とかじゃなくて。 そういうものが全部あったからこそ、ばーっと内側が豊かで過熱して、光の方向に行きたいというのがすごくあると思う。
でも光だけ求めても駄目なんだけどね…そうなんだけど、向いてる方向としてはそうです。
別々になることじゃなくて、つながったり一体になって行く方向です。
神:なんか私は、断絶とかずれとかよく言うけど、何をずらしたいかって言うと、 その、これとこれはつながってるっていう前提をなくしたいという感じなのね。 ここに隣り合っていれば、これは無条件に関係し合っていることだっていう前提がこの時点でできるから、 それは一旦なくして、またこれはつながっているのかも、いないのかもっていう・・・ そういう、どうしてもできてしまう、これとこれはつながっているはずだとか、
これを私は把握してるはずだみたいな、常にできてくる前提っていうか偏見っていうか、わかんないけど、そういうのを、取ってく(笑)。
大:取ってく(笑)
神:取っても取っても出てくるから、また取る、みたいな(笑)
大:うん、取っても取ってもね(笑)
神:うん、そういう感じです。
大:一応この後、それぞれのソロという名のデュオをやろうということになってるんですね。
神:はい、じゃあ5分くらい休憩を取って、実際何かやってみるということにします。
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【往復メール5】 神村→大倉
こんにちは。
先日のオンゴーイングでの3日間ではありがとうございました。
もう一週間以上経ってしまいましたが、私はまだその余韻をひきずったまま、次の稽古をしています。 ソロの最初の頃に意識的にも無意識にもやっていた稽古の感覚を、すごくたくさん思い出してきました。
3日間の内容について、大枠はもちろん決めていたけど毎回どう進んでいくのか、とてもスリリングでした。 共有する部分を確認できたと思ったら、次の日には全然食い違っていることが明らかになったり。
事前の往復メールからトークまで、かなりの分量の言葉をやり取りして、 言葉としてまとまるのが遅い私にとっては、苦しくも楽しいプロセスでした。
私の今回の収穫は、大倉さんのしている作業を、言葉でも動きでも目の当たりにすることができたことでした。
実際の踊りからは現在というものを感じるけど、実際には溯るということを丹念にやっている。
2日目に、作品をお互い一つずつ持ち寄って、それをもとに踊りを立ち上げるということをしたときに、それを特に実感しました。 例えば大倉さんの持ってきた、森山大道の「木古内」という写真から大倉さんの受け取ることが、 道の真ん中で振り返っている犬の過去の時間や経験の重みを身体的に感じることであったり、 私の持っていった萩原朔太郎の「蛙の死」という詩についても、なぜ子どもたちは蛙を殺してこれからその蛙をどうしようとしているのか、 を考えてそれを自分の実感とつなげることをしようとしていた。 私はむしろ、どちらの作品についても視点の偏在ぶりとか、感傷とか悲惨さがあったとしても、 それが突き放されて置かれているその距離の感触、のほうに引かれて、それを自分自身の感覚とつなげるようなことを考えました。
大倉さんのような、静止して切り取られた状況の中に、その前後の時間を再生しようとすることって、
私は全然やろうと思ったことはなかったので、目の前に知らない景色がぱーっと広がるような感じがしました。
現在の身体の状態をもっともっと細かく見ていくとそこに、現在のことに付いて来れていない部分があるというか、 違う時間に留まっている箇所があるかもしれない、と思います。
大倉さんがおっしゃってたように、感情とか過去の経験みたいなことを感傷として振り返るのではなく、 自分の中に実際あるものとして扱うっていうことを、まだ具体的にどうしたらいいかは分かりませんが、 これからやるカンパニー作品の内容とダイレクトにつながるものだし、何かの方法でできるかもしれないとぼんやり考えています。
最終日に実際に一緒に動いてみて驚いたのが、大倉さんの踊りから感じる質が、
客席で見ているときと正反対と言っていいくらい違うことでした。
観客として見ているときは、大倉さんの身体は周りの空間からくっきりと切り抜かれていて、
その内と外の境界は強固にあるように見えるのに、すぐ近くで動いていると、 大倉さんの言っていた、身体の中身が粒子になって輪郭が溶け出していくような感じというのが、実感として分かりました。 そのふわーっと広がってくるもやみたいなものに、危うく取り込まれるところだった。(笑)
どうして、舞台の外から見てとれることと、その中にいて感じ取れることが、こんな真逆になるのか不思議です。
パフォーマンスとしては必ずしも精密なものにはならなかったかもしれないけど、 その感触が得られたことだけでも大きな収穫でした。
大倉さんは自分のこれまでの経験や感情をどんどんこまかく掘り起こしていくと、 客観的な遠く離れた視点に飛ぶ、ということを言ってましたね。 同時にその方法はこれまでの経験の中から出てきたもので、どうやって身に付けたかは説明できないとも。
今の私にはそれがどういうことなのか、想像がつきません。 言葉の上では理解できるし、ぼんやりしたイメージみたいなのは湧くけど、 具体的に自分がどうやったらそのルートを見つけられるか全然分からない、と思っていました。 それで数日前に、福留(麻里)さんと話していてその話題が出たときに、彼女が言っていたのが、
大倉さんの言う客観的な視点というのは、身体や動きを視覚的に捉えているというより、 その外からの視点もまた内的な感覚を見つめているのでは、ということでした。
私は、客観的な視点=外形を視覚的に捉えること、と思っていたので、 福留さんの言うことにうなずくと同時に(大倉さんとしてはどうなんでしょう?)、 それでもどうしてそれが具体的に身体をコントロールすることにつながっていくのか、ますます分からなくなってきました。
まあこれは時間がもっと経って、ふとしたときにまた別のヒントが現れたりしそうです。
大倉さんが踊りの中に持ち込みたいと言っていた、切断面を作るというのがどういうことなのかについて、考えています。
外からの圧倒的な力の介入によって切断されるのか、追いかけているものが突然消えたり別の何かに変化したりするのか、 あるいは追いかけているそれが自分をくるりと見返すのか、どういう手段によってだろう。
いずれにせよその切断というのは、持続の中にすでに含まれているものだろうし、 切断っていうより折り返し、みたいなものなのかもしれない。
ものすごく抽象的なことしか言ってないですが、、、 大倉さんの今後展開していくであろう踊りについて、今のところ私が言えるのはそれくらいです。
今回大倉さんとやり取りさせてもらって、何だかすごく当たり前の結論ですが、
自分の踊りについて、どうやったらこの実感していることを続けていけるか、これを深めていけるか、 という持続への意志と試行錯誤の中に、居続けることをしなくてはいけないな、と思いました。
濃い時間を共有できて(できてないかもしれないけど!)、そこからたくさん栄養をもらった感じです。
改めて、ありがとうございました。
それではまた、何かの機会に。
神村
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【往復メール5】 大倉→神村
神村さん
こんにちは。
こちらこそ『尻尾と牙とまた尻尾』でご一緒させていただきありがとうございました。
これが最後の往復メールになるからきちんと書こうと思ったら、書けなくなって日が経ちました(笑)。
やはり、つらつらと勢いにまかせて出てくるものをとめないように、キーボード打とうと思います。
さてまず、、企画最終日に、神村さんと一緒に動いたときのこと。
それはもう、私の方も、百聞は一見にしかずとはまさしくこのことか!!!!という感じでした。
ずっと言葉をやり取りしてきましたが、一緒にやってよくわかりました。
神村さんの神経がこうもりの超音波みたいに、直線の「→」が飛んでいる方向と、速度までわかりました。思っていたより速い。
神村さんが発する「→」は壁や柱やそこここにある物たちの方へ向かって行くやいなや キュッと方向転換して、「←」また別の角度で新たな方向へ飛んで行く。
このような「→」「←」「↑」「↓」たちが、空間…というと、ここでは漠然とするので、もっとはっきり、こう言いましょうか、
柱と壁と天上と床で作られた空間(六畳一間ぐらいの大きさでも、1000人入る劇場でも、その大きさにかかわらず、箱のように
つくられた場所)
を、凄まじい速度で、また、ときにはその速度を変化させながら、飛び交い続けると、
いつしかその「→」たちの作る模様が幾何学模様になり、その幾何学模様が網目となっていく。
その網目がさらに折り重なり織り重なり緻密になっていく。そして、ついに自己増殖するかのように網目が息づき始めたとき、
おそらくその中に、神村さんの身体や周囲のものたちは、かすめ取られていく。
そのとき、観客は、神村さんの身体と物とが空間の中で、フラットな一枚の絵のようにみえるというような体験をするのだろうと。
そのように私には知覚されました。
それから、たしかに、福留麻里さんの言葉のように、大倉の言う客観的な視点というのは、 身体や動きを視覚的に捉えているというより、その外からの視点もまた内的な感覚を見つめている のです。
具体的な体の操作の面では、内側の筋やエネルギーの動きを知覚しています。視覚というより知覚かなと。
だから、からだが今このようなかたちをしているということも、だいたいわかっています。
で、どうしてそれが具体的に身体をコントロールすることにつながっていくのか、ここが 説明しづらいところだけれど、
それこそ、一人一人、同じ人はいないのではないかと思うのです。
それは、この世に一人として同じ人はいなくて、その人にしかない個性があるということです。そういう領域なのではないかと。
教える事も、習う事も出来ない、自分一人でしか辿り着けない領域なのではないかと思うのです。
ひとつ例を挙げると…
最近のことなんですけど、私は膝の裏が以前より柔らかくなってきたのですね。
そうすると、あるとき、体作りをしているときにふと気付くんです。 あ、膝の裏が柔らかくなってよく伸ばすと、肋骨、胸がふわっと柔らかく使える事と連動している、っていうことに。
そうして、ああ、人と接するときに、今までの自分はまだかたくななところがあったかな、 もっとこんなふうに胸を柔らかくして懐深くして色々なことを受け止められるようになりたいな。と。 今まで自分をかたまらせてきていた自分の原因を見つめ、今のからだと意識の変化を感じ、 これから先に開けて行く方向を素直に喜びたいと思うのです。
そんなふうに繋がって行くのです。
往復メール1の返信・『尻尾と牙〜』初日の「かたち」の話・今のこの話。
おそらく、違う言い方で同じ事を私は言っているのだと思います。
あと、このことで思い当たる事と言えば、自分自身が生まれてから今までのこと、 思い出し書き出せることを全て書き出したりもしてきています。 それを何度も読み返してみたりさらにそこに批評や注釈を自分でいれてみたり、 全部燃やして、またいちから書き直したりもしてきました。 実は一昨日、また燃やしたばかりで、また新しく書き始めようとしているところです。
そういうことが身についているのではないかと思います。
三日間、トークもさせていただいて、
そのなかで、ものに対する見方について、 神村さんは「空間」大倉は「時間」というイメージをもっているというご指摘を何人かの方からいただきました。
でも、私は、自分が「時間」を意識していると思った事はないのです。
「時間」ってどういうことなのか…。
ひとつ言えるのが、今までの私が踊りの中で感じてきたことは、 内側のなにものかがざわざわっと溢れ出していくことを体験し、観察しているので、、、 A地点からB地点に行く「→」の距離と速さと時間 という認識ではなかったということです。
これが特に、二日目に森山大道の写真(道の真ん中で一匹の犬が振り返っている写真)を題材に
神村さんと大倉がそれぞれのソロを踊ったときに、二人の特徴がよく現れていたのではないかと思います。
私、24時間365日…の時間というものが本当なのか、ここにある物の輪郭や形や重さ、ここからそこまでの距離とか、 時間や定規で測れる事が、ほんとうに、そうなのかどうか。それだけではない領域があるように感じられるんです。
ふうっと、自分のからだも、今この部屋のなかにある物たちも、目にみえない空気も、同じ粒子のように感じられることがあるんです。
そうして、その粒子すらなくなったとしても、確かにありつづけるなにものかが、あると…。
でも、このことはとても今の私の言葉では伝えられそうにないので、ここまでにします。
なんだか、今、話が急にそれたようですが(笑)この感覚も舞踏と切り離す事は出来ないことなのです。
ところで、神村さんが言ってくださった、切断は持続の中に含まれているという言葉。
『尻尾と牙〜』の翌週、フォトグラファーの友達と多摩川の河原で、私が即興で踊って、友達が撮影して、という時を過ごしてきました。
そのときに、あっ、という気付きがありました。
それは、まさしく神村さんの言葉にしてくれているような、外側からの出来事だったり、外側との関係の中で生じたことでした。
神村さんとの3日間を過ごして、自分だけでは気付く事のできなかった世界へと通じるトビラを見つけ出せたのだと思います。
そのトビラ開ける鍵を見つけ、トビラを開き、そこから先へとどのように歩を進めるのか。
私も自分自身の歩みを止めることなく、進んでまいります。
私は、神村さんとの3日間の体験で、もっともっと、懐の深いひとになりたい!と思いました。
そうして、その懐の中で、他者の個性、あるがままの色を、そのままに受け止めて感じ取れるように。
そのように、お互いが相手のことそのままに、あなたは青だね、私は赤だね、って、共に感じ合えること。
それがほんとうの「共感」ということなのだろうと…。
一人一人が日々内面を豊かにし、それぞれの色を輝かせ、他者と共に感じ、繋がっていくことこそが、
世界がより豊かになっていくことに繋がるのではないでしょうか。
また話がそれたと言わないでくださいね(笑)。確かに話は飛んでますけれど〜。
でも、私は、小さな声でここにひそやかに宣言したいと思います。
「革命ってこんなに身近なところにあるんだよ」と。
神村さん、『尻尾と牙とまた尻尾』を観に来てくださった皆様、会場のArt Center Ongoingの皆様と空気感。
一緒に時を過ごせた事で大切な気付きをいただきました。
ありがとうございました。
大倉摩矢子
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