第2回 美術家:鎌田幹子・舞踏手:大倉摩矢子 2009年11月15日 藤野町にて。
まえがき
種
カラダ・社会
繋がる
あとがき

鎌田幹子
1999年頃から作品を発表しはじめるようになり、 同じ頃から「踊り」と関わるようになる。
作品は、モノクロ写真をメインにし、映像、オブジェなどを用いたインスタレーション。ダンスとのコラボも多数。
2008年6月に都内から相模原市藤野町へ、家賃と自然の多い環境に惹かれて引っ越す。
引っ越してから、藤野町が芸術家がたくさん住む不思議な町であり、パーマカルチャーセンター、 シュタイナー学園があり、ほとんどのひとが畑をやっていて、エコロジーを考えた活動や、トランジションタウンと言う市民運動があったりして、現在の自分の興味にぴったりな町で、そして毎週何かしらイベントのある楽しく興味深い町であることを知る。現在は「フジノぼん」という藤野町のミニコミ誌のデザインも担当し、更に藤野について見聞を深め中。
http://wotwisp.com/

かまたさん。出会いは2003年。大倉の舞踏ソロ公演を観に来てくれたのでした。
その後、かまたさんの写真&インスタレーション展を私が観に行きました。
それ以来の友達です。
かまたさんは今は相模原市藤野町在住。黒猫のナナも一緒です。
グラフィックデザイナーとして、写真家として、美術家として活躍されています。
そして畑で野菜を育て、手作りのオーガニックナチュラルケーキの販売もしています。

かまたさんはこのウェブサイトのデザイナーでもあります。
かまたさんとの打ち合わせは毎回、私が藤野を訪れ、かまたさんの野菜たっぷりの手料理と
無添加のおいしいケーキを食べるところから始まります。

この日も、電車の長旅にお腹をすかせた私を、かまたさんはりんごのケーキを作ってお出迎えしてくれました。
りんごのケーキを食べながら、この日の対話は始まりました。

今回の対話のテーマは
『花はまた咲くことを識っているから枯れていく』。
これは、私が初めてかまたさんとウェブサイトの打ち合わせのため藤野を訪れた2009年2月に
藤野の山々を観ながら二人で散歩していたときに、ふとかまたさんが言葉にした一言でした。

そのときからずっとこの言葉は、私のうちに、ある輝きとして存在していました。

季節は晩秋の藤野。

私たちが話し始めると
話題は私たちの予想をこえたところまで繋がって広がっていきました。

結果的には、このテーマに沿うものとなったかどうか
私にはひとつの答えはできません。





























ーこの言葉はこのままで、すでに、彼自身のイノチを生き始めているのではないかと思われます。
              私のやったことは、生きやすいような土壌のお手入れでございます。ー



何度も、言葉をここは削ろうか、どうしようか。
そんな思考と試行を重ねた。

だが、作為はことばの鮮度を失わせてしまった。

もう一度、戻り
いくつかの繰り返しや、相づちの他は
全てをほぼそのままに、ここに出した。


揺れる船上で、釣り上げた魚をそのまま刺身にするように。


この言葉は過去のものだ。だが、
鮮度はそのままであってほしい。

きっと、賛否両論、この話にあって、それでよい。

それでも、私はこう言ったんだ!
あるがままの言葉をここに出せば、ただ、そう言える。

そのような、これは言葉の刺身です。

かまたさんはもの静かな女性。
私はよく喋る。
年下の私の話を、かまたさんは優しくずっと聞いてくれていた。
そんな対話になりました。

でも、そのままに、ここに。どうぞ。


かまたさん手作りのりんごのケーキを食べながら、話は始まった。
大倉は、この対話の二ヶ月程前に、畑で野菜作りを始めたばかり。
自然と、話は畑のことから…

か:たとえば、りんごがりんごになるまでって、すごい時間と手間がかかっているから、
  その時間がすでに料理のようなもので、あとはこちらはシンプルにお手伝いをすればいいんだな、って思ってきた。
  前までは、材料をたくさんいれてケーキを作ってたの。それはそれで、複雑な味で美味しいんだけどね、
  でも、粉とりんごだけで作っても十分美味しいんだよね。シンプル~。
お:なるほどね、ひとつひとつの材料作るのには相当の手間がかかってるわけだ!
  そういうものの集合体がひとつの料理になるのかな、やっぱり。
か:素材を考えていくと、例えば、牛肉どーんと持ってくる訳じゃなくて、牛が草をモシャモシャ食べて、
  草も生えるまでに光合成とか、下地があってできてくるわけで、
  それを食べて人間が生かされてるわけだから…。
お:すごいことだよね。食べ物も、実は、エネルギーを食べてるんだよなあ、と。
  ちょっと前に、お金がなかったときがあってさ。そこで私は考えたんだよ。
  『そうだよ!食べ物って、しばらく食べなくても死なないらしいぞ』と。
  だけど、空気を4分間以上吸わないと脳死状態になるという話を聞いたことがあるな、と。そいうことは、だよ。
  実は、”食べ物を食べる”ということよりも、空気の中には、目には見えないけど酸素の他にもビッシリと
  生き物が生きて行くのに必要な微量元素があるって聞いたことがあるの。
  そういうものを摂ってるんだ!と気付いて。
  「お腹すいたら空気吸おう!」と。空気吸いまくって「んー、空気ー!」って(笑)。
  そうすると、仙人が霞食べてるわけじゃないけど「ん、いけるかも!いけるかもー!」みたいな。
  そんな感じになって(笑)。 まあ、そういう話。こないだ友達ともしたんだけどね。
  食べ物もそうなんだと思うよね。具体的な、西洋医学で言ってる栄養素だけを摂ってるわけじゃなくて
  まあ、それはそれであるんだけど、このケーキを作るのが簡単だったって言ったって、
  りんご一個作るのに、どのくらいのエネルギーがかけられたかっていうとさあ。
か:それは畑やってるとすごいわかるよね。
お:私も本当にそうだと思うよ。お前、そんな簡単に言うな!って感じだけど、
  ”私、人生観変わっちゃったかな”みたいな感じよ(笑)。
か:笑。でも、ひとつの野菜やってると、白菜だって、球になるまではすごく時間かかるじゃない。
  一ヶ月たってるけど、まだまだだもん。
お:実は今日は、かまたさんと、畑のことも話しながら、
  今回のテーマ『花はまた咲くことを識っているから枯れてゆく』ということを 話したかったんだ。
  私はね、この感覚そのものについてを言葉にしようとすると、多分ね…
  宗教的な言葉を使う領域になっちゃうと思うんだ。ダイレクトに言葉にするとしたらね。
  私たちは…私は舞踏、かまたさんはデザイン、美術、写真家であるわけじゃない?
  だから、その作品の中で、それを伝えていくということ。
  自分の中ではいっぱい、言語の作業をするけれども、
  実際にそれを人に伝えようとするときに、言葉で話すということもあるけれど、
  私たちの場合は作品だったり自分が生きているっていうこととの繋がりであったり、ということだと思うのね。
  今、私とかまたさんとの共通項に「畑」があるので、その辺から…。


お:私、「種」って、すごい!!!!!と思う。初めて畑で小松菜の種を蒔くとき
  「えーーーーーっ!種ってこんなにちっちゃいのーーーーーーーーー!!!」って、びっくりしたよ。
  私のそれまでの”種の概念”は、りんごとかみかんとか柿の種とか…せいぜい朝顔の種よ、
  私が今まで「種」として認識していたサイズは。
  あまりの小ささに、えぇっ!?うそでしょ!と思った(笑)。
か:あはは!
お:でも、あの種の中に全部があるわけでしょ?例えば、うちに梅の木があるのね。あの梅の種の中に、根っこが生えて…
か:大きくなる。
お:大きくなって、木の皮ができていって、梅の木になって季節が来たら花が咲いて実が成って…
  それで、秋になったら葉が落ちて、また次の年に花が咲くでしょ?そういうことが、全部、この種の中にある。
  柔らかい葉っぱも、固い木の肌も。
  で、また実が出来たらその中に入っている種の固さとその内側に入っているもの…。
  今ここまでは未来系、成長することを言っているけれど、
  実はその前にその実を成らせてくれるために、どれぐらいの…梅の種の先祖がいるわけよ。
  それを思ったときに、「えええええぇっ!?」と。その前があって、今があって…
か:永い永い…
お:そして、今この中に、ここから先もあって…
  だから私、みかんとかスイカとか、種に全て入ってんだから栄養あるに決まってると思って、バリバリ食べるよ、
  スイカもボリボリ食べるよ(笑)、
  全部食べてるよこの人、って。  
  種…それってすごいじゃないか!と思ったというよりも、もっと一瞬。速い感じで、ある日突然、ね。
か:昨日私が考えてたのは、環境問題のこと話してたときに、「地球を護る」とかいうじゃない?
  でも、今人間が守りたいのは、人間に都合の良い環境で、
  何千何億年前は、シダ植物がバーッと生えてて恐竜がいたときは、恐竜はそういう意識はないけど、
  恐竜がずーっと生きてる環境がずーっと続けばいいな、って思ってたわけね。
  だから、すごいエゴだなーって思ったんだよ(笑)。
  人間はここが頂点だ、って思ってるけど、地球として観た場合、別にそこは頂点でも何でもない。
お:ないね、うん。
か:ただの過程であって、それを一番いいと思って人間が護りたい言ってるだけで、
  別に、それがいますぐぶっ壊れてしまっても(笑)地球の歴史上では何秒かの出来事なんだなぁ…なんて、
  どうしようもないこと考えてしまって(笑)。
お:いや、でも、それはさ…どうしようもないことじゃなくてすごいことでさ。
  私、畑を始める引き金となったのは、本読んだんだよね。
  「ハチはなぜ大量死したのか」(ローワン・ジェイコブセン著)、
  あと、「沈黙の春」(レイチェル・カーソン著)。今は土のはたらきの本読んでる。
  今、やっぱり、人間も生きているわけで、この世に。
  だから、何もしない、っていうのが自然か、っていうと、そうではない、らしい…とは思う。多様性とか共生とか…。
  今借りている畑は、畑向きの土じゃないんだよ。水田だったところに土を入れたんだけど、その土があまり良くない、と。
  だから、お借りするときも、「他の人にも貸したことがあるけど、撤退しちゃうんだよね」ということを言われて、
  まあ、ちょっとがんばってやってみな、という感じでお借りしたんだけど。
  でも、それは、人間が食べ物を作るための都合で言えば、ここの土は「悪いよ」「だめだよ」って言い方しちゃうのね。
  だけど…これだけ雑草生えてるんだから、生き物は生きてるわけでしょ。
か:「だめ」じゃないんだよ。
お:そう。「だめ」じゃない。雑草生えてるんだから、死んでない。生きてるんだよ、この土は。
  けど、人間がそこの土地から恩恵を受けようと思ったときに、自分の都合で言うと「だめ」なわけさ。
  だけど、命はあるわけでしょ、この土地に。ってふうになったときに、「活かす」っていうことか、要するに。
か:その土地に合った物を植えればいいんだよ。
お:そうそう。だから、「良い」とか「悪い」ということじゃなくて、その土地を活かして、自分も活かす、という方向でいけば、
  「良い」「悪い」は関係ないじゃないか、と。
か:みんな人間の都合で「良い」「悪い」って言っちゃってね。
お:人間の都合なんだよね。だから私は、この畑の土を「悪い」とは言いません。
  ただし、自分にもこの土地に命や生命があるわけだから、恩恵を頂けるように、せっせと活かさせて頂きます、
  というスタンスで…。数年単位かかると思うけど、土づくりから学ぼうと。
  もうひとつ、私が、ええっ、と感じた「種」や「畑」のことで
  『花はまた咲くことを識っているから枯れてゆく』と繋がると思うのは…
  土づくりをするじゃない?天気や風と相談しつつ、石灰やって堆肥やって畝を作って~って。
  そうやって、育てて育てて、手をかけて手をかけて…で、種を ふっ て蒔いたら、
  その後はもう、人間の関与できる世界じゃないじゃないか。
  雨、気温、土の中の微生物や、土の中にある栄養素や生命力や、あとは、その種自身の生命力。
  百粒蒔いて、百粒出てくるわけじゃないから…。
  だから、人間ができるのは、追肥や雑草取りや、虫がつかないようにとか…は出来るけど、
  実は、植物が種から生まれて生きてくることに関しては、人間は何もできていない。
か:観ているだけ…
お:そう。
か:早く芽を出せ~
お:そうそう。早く芽を出せ~って言ったときに、まあ、私の性格見てればわかると思うけど、
  「早く芽ェ出せよ」とか言って、出てこないと土ほじくって引っ張り出したくなるようなところがあったんだけど(笑)。
  いや~、ここが人生観変わったかもっていうところでね。
  そうか。「時が来れば、出るんだ。」と。
  確実に、その、理にかなった時に…。「時が来たときに、動き出すんだあ!」って。
か:そのヒトが出たいときに~~~(笑)
お:「宇宙の星々の運行みたいじゃなーい!」ってさ。感動だよね。だけど、なんかその……
か:「自分のあずかり知らぬところで、ちゃんと動いているんだな〜」なんて?
お:いや、なんか、そういう、感覚な気がするんだよね。
  『花はまた咲くことを識っているから枯れてゆく』を、今テーマにして話しているけれど
  かまたさんは、どういうふうに写真や美術に繋げているんだろうと思ったりね。
  私は、気付いたのは最近なので、これからの生き方に関わってくるんだけど、
  その…、踊ったり、自分が人に対して、例えばさっきみたいに動かないなあと思ってもさあ、
  動かないときは動かないわけじゃない。
  私は、けっこう、動かないと「オラ、動け!」って蹴り入れたくなったりする人だったんだけど(笑)。
か:ふふふ。。
お;いやー、ちがうんじゃないか、って。いや、なんかちがうわ、なんかちがってたわと思って。そうしたらさあ…
  何か、”事が起こるためのきっかけ、という事象の一部”というか…。
か:人をみてると、種とすごい似てるなあって。だって、人が何かをはじめる時「おっ」とかって、出るじゃない。
  あれは、ダンスの最初の動きとすごく似ている。
お:私もまさしくそう思ったのよ。……それ最近。
か:最近かあ(笑)。
お:笑。でも、実は、自分で知らず知らずにそういうことやってたんだね。
か:そう、やってると思うよ。
お:でも、自分の頭では認識してないから。
  それが、今言ったとおりで、舞踏って、そうして出て来た生命の芽を大切に大切に運んで行くこと…
か:で、最後に花が咲く…
お:そういうことだったの…と思って。いや、知らぬがなんとかって言うけどさ…
か:えー、そうなの~(笑)?それなのに、踊りがあれなんだ。不思議~(笑)。
お:不思議でしょう。きっと、師匠の大森さんが今までずっとそうやって育ててくれてたんだよね。
  うちらは種で、ただ、ムクムクと出たい出たいと言って伸びていけばいい、みたいな元でやってたんだけど、
  気付いたわけだから、これからは、自分で自分に対して畑を耕すように…。
  今まで大森さんがやってくれていたことを、これからは自分で自分に対してやっていくんだな、っていうことを、思ってる。
  そうして、表現されたことで…んー…自分自身が運ばれていく?そういうような‥
  んー…内面に、そういうものを宿らせることでさ、ふうっと、
  舞台で言えば、踊り手と観に来てくれたお客さん達との繋がりでもあるんだけど…
か:受粉するんだよね。
  受粉しないと、お客さんと繋がれない。一人だけでやっててもだめなんだよね。
お:ああ、そうだね、受粉かあ………。
  いや、なんか、今日はその言葉を聞きに来た気がする。受粉かあ〜〜〜〜〜〜。
か:なんで種が出来るんだろう、って思ったら、一人じゃできないじゃない。蜂が受粉してくれるときもあるし、風媒もあるし。
  人がいなくたって、踊ってればいいじゃん、っていうのじゃなくて、やっぱりお客さんがいて、踊りが存在するっていうか…
  ひとりで踊りを極めるというのは、あんまし踊り手としてあるべき姿じゃないかも。。
お:それだったらさ、ヒマラヤの山中で一人で修行してれば?っていうことになっちゃうじゃないか。ねえ。
か:でも、ブッダだって、そういうふうにしていたんだけど、結局、人と関わる事でしか悟れないというか…
  一人では人間はやっぱり生きて行けないから…
お:踊りをするときに、こういう、自分…社会的な、対・人、対・他者、っていうのもあるけど、
  こう、感覚の中ではやっぱり、自分の中でさっき言ったような種子…新しい生命、芽が出てくるような感覚を
  自分の内側に孕ませるということはその…自分の内側に、自分だけじゃない存在とか、
  その存在と一体になるという…内面の世界の中でもやっぱり、自分だけでは踊りの芽って生まれてこないよね。
  色んなことが…。
  そういうのって、稽古場だけでやってちゃだめなんだね。日常の生活全部あって、それが舞台においては…。
  稽古する、っていうことは、自分で自分を耕して肥料をやって。
  そういうことが全部支えてくれるんだけど、本番でパッと出る「生命」はもう、”人間の私”の関与できるところではない。
  けど、その、自分の中に生まれてくる生命を…生まれてくるために、私たちはこう、毎日…
  舞台の本番という瞬間に向けての稽古の時間だったり、いっぱい、いろんなことを体験するのかな、と。
か:自然農法って知ってる?
お:福岡正信さんの「わら一本の革命」を読んだことがあるよ。
か:自然農法って、ほんとに畝とかも作らないで、雑草とかボウボウになってるから。でも。ちゃんと出来る。
  でも、自然農やってる人でもなんかしたくなるんだって。だから、……なんか世話をしちゃう(笑)。
  ただ蒔いといてもできるのにね。。。人間ってそうやって関わりたくなる生き物なのかも。。。
お:でも、一般的には…、商売でやろうとするとどうしてもさあ、ちょっと家庭菜園やっただけでもわかったけど、
  今の現実で、どうしたって生計を立てようと思ったらやっぱり、農薬とか使ってしまうと思った。
  家庭菜園のペースでもこんなに虫がつくから。
  ああ、と思った。だから、一概に「農薬をやめろ」と、ただ単にそちらの方面だけからだけ言うのは…
  私も今までそうだったと思うの。
  でも、一回やってみると、言えない、言えないよ。善悪じゃない、それは。
か:だってさ、自分の食べる分だけ作っていいんなら、虫がつこうが、収穫量が少なかろうが、いいけど。
お:もしもだよ。スーパーから、いっさいの食料品が消える、もしくは、ニンジン一本が五千円という時代が来たとするよ。
  そうして、自分の家の畑で採れたものしか食べる物がないってなったら、農薬撒きます、私も。うん。
か:それ以上にきちんと作れるテクニックがあればいいけどね。
お:それには土が大事で、元気な葉っぱには虫や病気は来ないわけでしょ。
  何度も何度も農薬使ったり、土が痩せたりするから、病気にかかりやすかったりする植物になっちゃうわけだからさ。
  だけどさ、ついうっかり過剰に世話をしてしまうっていうのは、怖いことだなーと思うんだけどさ。
  結構怖い話だと思うよ、それって。愛に見返りを求めてしまう、みたいなさ。
か:ふふ(笑)…。でも、世話をしたほうがいいよ、っていう人もいるし。
お:うん…。世話の焼き方だな、ああ~。
か:福岡政信さんの畑に行った人が言ってたけど、彼の作った畑には彼の『息づかい』がかんじられたんだって。
  自然農だから放置しっぱなし、ではなく、きちんと彼は畑に心を配っていたみたい。
お:私が畑を始める事になったきっかけのひとつに、十年ぐらい前にお花屋さんで仕事をしていたときの体験もあったんだけど。
  まあ、野菜は味でわかるわけだけど、お花でも、確実に違うんだよね、生産者によって。
  お花って、仕入れのときには、長細い段ボールに入ってくるの。
  私の勤めていたお花屋さんでは、週二回トラックに何十箱もの段ボールに入った花を仕入れてた。
  で、そのトラックから箱を降ろして店の中に運んで、段ボールをカパッと開けるところから花との出会いが始まるのね。
  そのお花屋さんは特に、世田谷でも有名な、センスが良い店で、花にもいろいろランクがあるの、
  その中でもいいものしか扱ってなかった、という恵まれた環境だったから気がついたことだと思うの。
  だから、いいお店に勤められたことは恵まれていたのね。
  こう、カパッと、箱を開けた瞬間に、生産者によって全然違うのよ。
  もう、開けた瞬間、「ホワアーーーーーーーーッ」となるような
か:花なんだね(笑)。
お:そう。ほんとうに、いいお花があって。
  そういうお花は、もちろん持ちが違うというのもあるけど、具体的には、ガーベラの花で一番強烈に感じたんだけど、
  もう、その生産者の人のガーベラをみると、とたんになるのさ。
  「フワアーーーーーーーーーッ」と。「ホワアーーーーーーーーーッ」と。
  なんなの~!?って。なんでこんなにフワーッとなってしまうの?っていうようなガーベラの花。
  その生産者の人は、必ずそのガーベラの箱に、自分の写真だったか、イラストだったか、入りで、
  ”私が愛情込めて作りました”というようなメッセージが入ってるわけさ。
  「……!込めてるよぉ!」みたいな。「すごい愛よ、これは!」っていう。
  だから…花でそういう、なんていうんだろう、そういう感覚を毎日、お花屋さんの仕事で毎日、体験してたんだよね。
  それが、ずーっとあったんだよ、なにか、物を作るということとか、教わる事が…、畑を始めることに繋がってると思う。


お:…そうだ、たまたま…、つい10日ぐらい前かな、あるオイリュトミストの人と話していたことで…
  ちょっと、畑とかの話からはシビアなことかもしれないけど
  「たとえば舞台上で踊っているとき、その踊っているダンサーのカラダの『社会性』と、
  ひとつの公演やフェスティバルを企画したりプロデュースしたりすることの『社会性』とは、
  どうやって一人の踊り手のカラダのなかで繋がってくるんでしょうね?」ということをメールで話してくれたんだけどね。
ー今回の対話の数日前に、大倉はあるオイリュトミストと、メールで話をしていた。
今、世界や日本には、様々なダンスの企画や、ムーブメントがあることなど…。
そのとき、送ってくれたメールの中で、私が意識をとめた言葉のひとつ。
『たとえば舞台上で踊っているとき、その踊っているダンサーのカラダの「社会性」と、
ひとつの公演やフェスティバルを企画したりプロデュースしたりすることの「社会性」とは、
どうやって一人の踊り手のカラダのなかで繋がってくるんでしょうね? すごく興味あります。
やっぱりペテン師になるんですかね?そこらへんをうまくやるには…」

どうなんだろう。
自分はどうだろうか。
ペテン師って、どういう真意なのだろう、とも考えた。

自然と、対話の中でも、大倉の意識の流れはそちらへ向かうー

お:私が返信をしたのは…私は、自分の内側から伝わっていって、それできっと社会が変わるんじゃないか、っていうこと…
  コトバで言うと「革命」だな。そこから、変わるっていうようなことを…。
  でも、どうしてもそこでさ…例えば、「野菜を作って生計を立てなければならない」ってなったときに、
  どこかでペテン師になってしまうこともあると思うんだ。
  その辺を、どうやって繋げていくんだろうね、って思ったときに…。
  やっぱり、一人じゃ踊れなくて、お客さんがいて、踊り手がいて。
  踊り手自身の内側の空間でも、他者との交感や一体となること、溶け合うことがなければ、
  内側から生まれてくるものや伝わって行くものもない…ということや…
  今ここから、この隣に!っていうところから広がっていったら、「革命」だろう?って…。
  だって、いくら自民党から民主党に代わったって、一人一人が変わらなきゃ変わらないじゃない?っていうさ。
か:それはわかるなー。いま、「心ーククルーUAやんばるライブ」という映像の上映会をやってて。
  内容的には基地増設をやめて沖縄の緑、人権を守って欲しいということを言っているんだけど、
  この映像のもっと大きなメッセージは、ひとりひとりの気づきが大事だということ。
  それが最後に大きな波になるんじゃないのか、ということ。
  政治的なことや、でっかい問題について考えたときに、大きいところから覆そうとしても、簡単にはいかによね。
  一人一人が自分が出来る小さいところから、変わっていくということなら、できるかもしれない。
  上映会は、来てくれる人はそんなに多くなくて、十人とか、下手したら一人、二人のときもあるけど、
  一人、二人がそれを観て感動して…。深く感動した場合の方が、広がりが速いと思う。
  百人に見せて百人が「ふうん」って言うのと、三人が観て三人が「「すごい!」って感動した、
  その気持ちの方が、巻き込んで行く力があると思う。
  だから、たくさん、それが繋がったときに変わるんじゃないかって。
  UAもその映像の中で言っていたけど、そういうのが一番実は大切なんじゃないの、と。
  だから、アートでも、大きいところで大人数に見せるっていうだけではない。
  すごい、濃いところで、何回か、やってくうちに、「ポーン」って超えるときがあると思うね。
お:それって、「芽が出る瞬間」じゃないの?
か:そうだと思う。
  本当に小さい種があちこちで芽吹く時があるんんだよ。
  ペテン師にならなくても、多分大丈夫だと思う(笑)。希望でもあるんだけどね。
お:いや、なったらダメよ、絶対…それだけは………………
か:種を蒔かないと、芽は出ないからね。いくらつつこうが。
お:そこにやっぱり…『呼吸』とか、『息』とか、『間合い』になるんだろうなあ。
  こういうふうに話しているときや、人に対して…そういうものが土や畑にも伝わって、育てるわけでしょ。
  花だったらやっぱり、あのガーベラの花を育てた人は、そういう”意識”を持って花を育てていて。
  花はどれくらいの過程を経てお花屋さんに届くかっていったら、すごいわけじゃない?
  市場があって、売買されて、トラックで何時間も運ばれてお花屋さんにやって来る。
  そして私が箱を開けて「ホワアーーーーーーーーーッ」「フワアーーーーーーーーーーッ」となるまでの間に…
か:その花に一人が感動したら…
お:私、すごい感動したじゃない?お花屋さんに勤めてたら、絶対その花すすめるし、
  アレンジメント作るときにも真っ先にその花を使ってたよ。
  そして、その花を見た人が元気になってくれる。もうお花屋さんの仕事してなくたって、今だに私は感動している。
  ここで今こうして十年経って今なお話している。と、いうことなんでしょうよ、きっと。
か:感動、ということってすごいね…。
お:私ね、今、こうして話しているけど、一年前だったらこういうことは話せなかった。
  「変わらなきゃ、だめだ、私。」と強く感じたきっかけがあって。
  あの………。私の友達が、今年の五月に自殺したんですよ。仙台に住んでた。
  二月の初めに、私がソロを踊ったときに観に来てくれたのね。
  美容師だったんだけど、お休みをとって、30分のソロのためだけに仙台から来てくれた。
  来てくれることは聞いていなかったから、とっても嬉しかったのね。
  そのときは、私も次の出番の合間で、彼女もすぐまた帰らなきゃ、ということであまり話す時間はとれなかったので、
  公演の後、御礼のお手紙を送ったのね。
  それから、彼女からメールが届いて、ソロの感想や色々、送ってくれたの。
  その中で「今の職場をやめて、もっと仙台市内の中心の方にある美容室に変わろうかどうしようかと迷っていたんだけど、
  踊りと、その後のアフタートークを聞いて、ふんぎりがついたような気がする」って言ってくれて。
  で、まあ、メールの言葉って、わりとサックリとしたものじゃない?
  だから、私は、「がんばってね」って。私は、あんまり、人に”がんばってね”と言うのは好きじゃないんだけど、
  メールだとそういう表現になるときってあるじゃない?
  で、まあ、「がんばってよ」と、メールを送ってた。
  四月の終わり頃に、今度は、彼女から「引っ越しました」って新住所の連絡メールが届いたの。
  あ、心機一転、がんばってるんだな、って、そのときも「がんばってね」というようなことをメールしたんだよ…。
  常に私は、”がんばってね”というときには違和感があるんだけど、メールでそう言ったんだよ。
  それから何日かして、共通の友達から電話があって「亡くなったんだよ。明日お葬式なんだ。」って。すぐ仙台まで行った。
  なんか……そのとき思い出したのが、師匠の大森さんの言葉で。
  ずいぶん昔に話してくれたことなので、言葉通りではなく、私のニュアンスになっているんだけど…
  例えば、自殺をしようと思っている人がいるよ。
  その人が、たまたま、本当にたまたま、公演のチラシを手にしてね、フッ と、観てみようかな‥って、
  足を運んでみる気になってね、会場に来るわけ。
  公演を観るわけ。そうしたら、 ふうっ と、ああ、もう、死ぬのはやめよう。って。
  帰り道に、一杯、そのへんの赤ちょうちん…立ち呑みで、焼き鳥と、チューハイ飲んで、家に帰る…。
  そういう踊りね。そういう踊りがいいんだよ、って。
  それを思い出したときにね、「私、何をやってるのか。」と思った。
  彼女が自殺をしたのを聞いて、お葬式に行って。自分のせいじゃないのはわかってるんだよ。
  だけど、「なんにも、ならないのか?」って。多分そのときに、一瞬、自分を責めたね。
  でも、責める事もある種の陶酔…と、気持ちを切り替えたんだけども。  
  でも、ただ、「あかん」って。いや、なんで今関西弁なのかわかんないけどさ、
  ただ、ザクッと。
  それで、今に至る。
  ただ…そういうこと…。大事にしないと…。うん、ああ…。
  だから、”踊るカラダと社会性”ということをメールで話したときに、
  私、堰を切ったように、よくこんな文章書いたよ、っていうぐらい力強いテンションで
  そのオイリュトミストの人にメールを返信しちゃって。
  大変だったかと思う(笑)んだけど。でも、こう、言わずにいられなかったというか。
  そのことを思い出したら、言わずにいられなくなっちゃって…。今も話しているけどさ。
  けど、本当に、そういうこと…そういうことを…。”社会と踊り”っていうときに、
  大事にしておったら…大事にしていけば、いいじゃないか…って。
か:舞台に立つこと自体が、本当は、社会と関わってることなんだと思うよ。
  友達で、すごく社会的な活動とアートを一緒にやっている人がいて。
  自分は、世界のこととか大きい事に関わってる作品を作るっていうことは、個人としては、無理だろうと思ったのね。
  自分では抱えきれないって思ったから(笑)。
  でも、なんか気になって、その人の活動にちょっとずつ顔出したりとかして、
  すごく社会的な問題を知るということは大切なことだな、と思ったんだけど
  なにか「反対運動」って自分の感覚に合わないな~、って思ったのよ…。
  あるやり方があってそれに反対!って言うのは簡単、
  でも、それに変わる新しい案や方法が見えない限り反対運動だけやってても、ダメだ。って思ったの。
  もちろんそれはアートの世界だから「NO」を突き付けて、
  見ている人に考えさせるのもありだと思ったけど、自分は違うな~と。
  わたしは、その解決方法が、自分が街や住みたい暮らしを作って行くことになるのかな、と思って、
  エコビレッジとか解決方法を探す活動のほうへいったのね。
  それはまだ…作品とは整合性を持てないんだけど…でも、そういうことがあって。だから、反対運動?というか……
お:”反対”じゃなくて。
か:そう。「反対」という意見を言うことは、すごくいいと思うんだけど、
  反対運動だけに力を込めるということは、逆の勢力を呼び寄せるっていうことになってしまうから。
お:そうだね。
か;でも、そういう社会活動とアートが、どういうふうに関わって行くかっていうのは、まだ私の中ではちゃんとできてなくって。
  今は、アーチストがしたいことができる環境は、社会的に環境を作るってことになるのかな、っていうことは思ってる。
お:さっき話したことで言えば、”この畑の土は悪いから”っていう一言で片付けるんじゃなくて、
  ”これだけ雑草の命があるんだから、自分たちも恩恵を受けられるように活かせばいいじゃない”って、やっていったら、
  結果的に、ものすごくいい土になるってことでしょう?
か:そういうふうに、「活かすこと」を考えていくっていうこと。
  それが、社会性と繋がって行くのか、どういうふうにしていったらいいかな、っていうこと…。
お:そうだね。そこだね。
か;コミュニティー・アートっていうのが今、あるらしくて、社会とコミュニケート、要するに町おこしってあるじゃない?
  商店街を復興させるとか。
  それが気になっているんだけど、参加する場合、その社会的な問題を意識して出演するとか作品を出す、ということなのか、
  それとも、個人的な問題を持って表現して行くということなのか、とか考えるのね。。。
  生活をするということ全てを持ってアートとする、というのもあるし。
  例えば、ここで、ケーキを焼いたり、自分でご飯を作るっていうこともさ、
  外食しないとか、食べるとか。それも全部アートにしちゃう(笑)っていうのが
  自分としては一番、もしかしたらしっくりくるのかな、っていうのもあったり。。。
  でも、逆に、アートとしてものを作っていくということ「だけ」で生きるという人も…
お:いるね。
か:いるけど、多分…自分はそれじゃあないのかなあって。自分の作品は普通の生活とは少し違う表現もあるけど、
  本当に普通の生活からはみ出てしまうと、それもすごいことなんだけど、
  なんかこう…生きる上でバランスが上手く取りにくいんだよね…(笑)けっこう。
お:今の話でさ、生活全体っていうところでやってるのって、いい。いいんだけど、
  そこに、「これで生計立てなきゃいけない」ってなったとたんに
  何かが…何かが…何かが!!!っていう…。そこで”ペテン師”っていう言葉がでてきてるのかどうかはわかんないよ、
  私はその言葉を聞いたときにどういう真意を持ってか、そこまではわからなかったけれども、ただ、その………
  私が感じたことは、そこから見返りを求めてしまうと…。ということ。
  野菜育てる話で言えば、こっちの思い込みの過度の愛情?恋愛でいえば○△□☆★(笑)、ねえ。
か:尽くし過ぎ?(笑)
お:笑。そういうことが起こってきたとたんに何かが…っていうような。そこがやっぱり…。
  私は、そういうことがないようにしなきゃ、って。色んなことで。そう思ったんだけどね。
  でも、何をそこで大切にしていこうっていったら、
  感覚で言えば相手との「呼吸」だったり「息」…感動させてくれる何か…。そういうところ。目に見えるものも。
  いま、ここに、私とかまたさんがいて、私たちの間に湯呑みやお茶碗があるけれどさ。
  そういう目に見えるものも超えた何か、さ。
  それが、どこかで、バランスを失ったときにもあるのかしらね。
  だからさ、アートのイベントがあったとしてだよ、
  じゃあ私は、そこで舞踏を、「○○運動」って踊ったときに、そのために、やる、作品を発表する。
  ってこともあるのかもしれないけど、やっぱりそのときに、そこで、どれだけのものが、こう……というのが最初になくて、
  何か外のもののために、ってやってしまったとたんに、踊りは全て無くなってしまう。ということはありうること。
  私が、「社会とアート」ということを考えたときに、生活全体、それはもちろんすごい、すごいことだ。
  生活全体が畑に肥やしをやっていくことでさ、
  耕していくことでさ。ある日、芽に、命になって、「パーン!」って、出て来るわけじゃない、時が来れば。
  だけどね、そのときに、本当に繊細に行かないと、壊れてしまうものがある。カラダの持つもの………。
  オイリュトミストの人からのメールでね、
  『今、自分が「社会性」ということと、「カラダ」について、感じてることは、
  自分と他者との間に、どういう関係をつくりあげられるのかということが、一番リアルな気がします。
  今身近に生きている人だけでなく、それは死者であったり、
  これから生まれてくる者であったり、風や光であったり、動物であったり、植物であったり、一冊の本であったり、
  あるいは、自分のカラダであったりする他者と、どういうふうに関係をつくることができるか、という想いです。
  そういう「関係性」を作り出せた時、そこに「社会」というものの包芽も生まれてくるような気がするのですが……。
  カラダを作って行くことは、自分一人の身体だけではとどまらず、個人を越えて広がっている社会のカラダがあり、
  民族のカラダ、宇宙のカラダがあるという感じです。』という言葉があったの。
  私は、そういうことをなくして、何か外のもののために、っていうことは…………
  本当に、本当に、繊細に、呼吸を、息を、していかないと。
  今にも割れてしまそうな薄氷の上を歩いて行くような繊細な感覚かもしれないよ、
  バランスをとる、ということは。自分の”内面性”を、今の、アートの運営、との話に乗せるとすればね。
か:社会とどう関わるか、っていう身近な例だとね…
  今住んでいるところとどう繋がっていくかって、いま、ジレンマがあって(苦笑)
  こういうのを(目の前にある湯呑みを手に取りながら)作る人って多いわけよ。
  日常に使えるようなものでさ。あと、かわいいものとかさ(笑)。
  私が作るものって、日常からちょっと、あれ?って、外れてるからさ、なんかこう、居場所がないわけね(笑)。
お:ああ、藤野で(笑)?
か:ケーキを作ってる自分はさ、
お:ハマるよね。
か:でも、ものを作る、ってなったときに、すごくなんか、自分は外れている気がして…。
  どこに身をおいたらいいんですかねえ、って、いつも思っちゃう。
お:かまたさんが作った作品は、私はインスタレーションはあんまり観ていないけど、
  写真観てるとさ、なんていうんだろう、そういう視点だよね。いい意味で、角度。角度つけてるんだよ。
  それは、中心から外れてるという意味じゃなくって、今私が言っている中心の意味は、シンメトリー、ね。
  そういう、ドシンっていうここの重心があって、外れてるっていう意味じゃなくて、かまたさんの角度を持ってる。
  かまたさんの角度、カタムキがあるっていう感じかな。その辺はどうなの?
  もし、かまたさんの今言っている話と、かまたさんの写真とが繋がるとしたら、
  かまたさんは「観察者」みたいなところがある、私から見ると。
  それを、かまたさんの角度で常に観ている、そういうのがあるのかなあと思ったりして。
か:だけど、最近「観察者じゃなくて体験に入っていきたい」っていうのが少しあってさ。
  でも、体験に入り込んじゃうと撮れなくなるわけよ。
お:んんん~~~~~~
か:(笑)どうしたらいいのかなって思ってて、変わって来てるんだろうと思うんだけど、
  その変わり目で、まあ、今ちょっとよくわかんない(笑)。
お:でも、もしかしたらその変わり目ってさ、今言ってた、「自分の内面と社会との関わり」とリンクしてるんじゃなあい?
  そういう印象を受けたけど、今話を聞くと。
か:うん、変わって来てるから、どうしたらいい?って。。今までのやり方と違うから、そう思ってるんだと思うけど。
か:人と自然の関わりを気にしだしたのは、岩手の土澤の野外展で、竹の柱を何本か立てて中村公美さんに踊ってもらったとき。
  その頃、自分の制作の中心を変えはじめた時だったんだよね~。
  それまでは自分の中の葛藤や、言葉では言えない苦しみを、どうにか表に出したくてやってて。
  でも、その葛藤に深く入り込んでいけば行くほど自分を傷つけるし、自分自身を引き裂いていくような気持ちになって。。。
  こういう表現を続けていくと、最後には死ぬなぁ・・・って思ってさ。
  やっぱし、いきててよかったーって感じがほしくなって・・(笑)
  体調も崩しがちで、東京の環境にちょっと無理だなーって感じてきたりして、自然にすごく惹かれていったのね。
  その頃、身体壊してマクロビォティック(「玄米菜食」)もはじめたし、
  陰陽とか、身土不二とか土地と身体の調和のようなものを考えたりしてたのもあってねぇ。
  岩手の会場に下見に行ったときも、そう言う場が作れるところ、を探してて・・
  そしたら、ふと、実がいっぱいなってる柿の木が目に入って、あーすごいなぁって。
  木ってさ、大地からと太陽からとのエネルギーがないと、実ができないじゃない。
  そういう天と地のエネルギーが交わるところにある、「芳醇な果実」が人間だったら素敵だな、と思ったのよ。
  それから、梅の木もさ、梅の実って、すごいエネルギー持ってるなぁって。
  でも青梅は毒を持ってるから、他の動物に食べられないようになってるという…
  ありがた~いもんだよね!梅干しとか作れる人間にとっては宝だもんね。
お:うちでは、今までいっぱい、鳥を飼って来たの。
  小学校のときから代々四羽の手乗り文鳥がいて、それから、ヒナのときに巣から落ちていたスズメ二羽。
  総勢、うちで六羽の手の平サイズの小鳥が、十何年か、いたの。その前にカラーひよこがいたときもあった。
  その鳥たちが死んだときに、他にも飼ってた金魚たちもなんだけど、うちのお庭のお墓は、梅の木の根元なのよ。
  みんな、そこにいるの。金魚が死んでも鳥が死んでも、みんな梅の木の根元なのね。
  で、私、今年の梅雨に初めて梅干しを漬けたの。うちの梅の木の実でね。自分で漬けたのが初めてだから感無量だけどさ。
  そのときに、梅の実を収穫するときからさ、
  鳥のことを思い出さずには梅を漬けられないし、梅干しを食べられないんだよ、私は!
か:そうか、そうだ、みんな…
お:そうなんだよ。なにかね、そういうことは、自分の内面の他者であると思う。
  そうしたときに、その”イノチ”を繋ぐ存在は、ヒトの…、ヒトの感情であったり感動することの力であったり、
  ”呼吸”、”息”であったり、 というのは、そこに繋がっていてほしいなと思ったね!今の話を聞いてね。
か:人間は長いスパンで見たときには動物なわけだから、
  人間が持ってる「感情」とか、そういうのは無意味なのかなって思ってたの…
お:いやぁ!
か:でも、今、聞いたら、繋げるためにはそれは必要なんだな、って思った。
  それがなければ多分、繋げられないだろう、って思った。
お:だから、さっきのかまたさんの話で『アート』っていうのが、生活全体で…っていう。
  『アート』っていう言葉を「息」だったり、「イノチ」っていう言葉と置き換えても今の話、全部成立するぜ、って。
  『アート』っていう言葉を「イノチ」とか………、違う、イノチじゃない、さっき思ったことは………
  そうだ、『アート』っていう言葉を、『活かす』っていう言葉に置き換えても成立するぞ、って思って聞いてたの、実は。
  だから、何かに反対すれば反対勢力を生むんだけど、『活かす』っていうこと。
  だから生活全体が『アート』であったときに、『生活全体を活かす』っていうことであればさ…。
  そういう言葉になるとも感じたし。
  さっきの、”人間の感情は無意味だ”、と、思いたくない!無意味なものなんか……。
  ”人間の感情を無意味だ!”って言ったら、”無意味じゃない!”っていう反対勢力を生むエゴになっちゃうじゃないか。
  だから、活かすとか繋げるとか。だって、ずっと繋がってくわけでしょ?
か:こっちからも、こっちからも
お:こっちからも、こっちからも繋がるし、『また生まれて来ることを識っているから枯れていく』んでしょ?
  そういう繋がりだったら、活かす、っていうことが、一人のヒトの在り方であれば、
  そこから何かが変わるっていうとが社会との繋がりであったり、
  テロ、とか反対運動じゃなくって、本当に一人一人の内側からの革命。
  で、それは、ある時が来れば必ずバッと芽が出る。
か:人間だけが、多分、『死』というものを、何かに変えられるきがするな~。
  『死』っていうのはさ、動物は自然に受け入れるでしょ?
  でも、人間はすごく泣いたり悲しんだりする。
  でも、それは悪いのかな、っていうかさ、やりすぎなんでは、って私はちょっと思ってたのね。
  でも、そこに感情を入れられるっていうのが『アート』なのかな、って。同じように…。すごい抽象的でごめん(笑)。
  そういうふうにできるのは人間だけであるから…まあ…感情の存在意義ってあるのかなと…。
お:今『アート』って言ったけど、そこを『活かす』と言っても成り立つんだよ。
  死に対して過剰っていうのは、そこは確かに…。人間だけなんだよ。死を知っているのは。概念として。
  だけど、うちの鳥が死ぬときには、一羽だけ、ものすごく苦しんだ文鳥がいたの。
  ひどい下痢になって、もう、息も絶え絶えで、羽もボソボソになっちゃって、
  もう…ほんとに、辛くて、辛くて………。でも、最期の最期まで、餌を食べようとするんだよ。
  だからね、どんなになっても、観てるのは『生』なのよ、鳥って。
か:先、っていうか、生きる、っていう…
お:そのときの、死の瞬間まで生ききる姿って、人間が概念で言ってる「生死」のエネルギーじゃない気がするんだよね。
  で、そこを繋いでいかなきゃいけない、っていうことだと思うの、私たちは。種子としてね、芽としてね。
  カメのときもそうだったのね。
  うちのカメは、車に轢かれてて、甲羅が割れて肉が出て、口から血の泡吹いてもんどりうってた。
  私はたまたま通りかかって…
  カメの姿を見た瞬間、頭が真っ白になって、泣きながら、カメを抱いて家まで連れて帰ったのね。
  気持ちは急いでるんだけど、走るともがくからなんだか唄ったり話しかけたりしながらものすごい早歩きした。
  すぐ近所の爬虫類のペットショップに電話して動物病院を教えてもらったら、
  奇跡のように、ウチから通えるところにカメを看てくれる獣医さんがいたの。すぐバケツに入れて電車で連れてったの。
  レントゲンとって注射打って甲羅にパテでギプスして…。
  夜家に帰ったらすぐ水槽と砂利を買いに行って、集中治療室作った、本当に色々やったよ。
  そのとき、獣医の先生が、「これでやれることは全部やったから、あとは、カメの生命力だけですよ」って言った。
  夜中に、全然動かないカメを見て、カメはどうなるんだろう、生きるかな、死ぬのかなあ……って、見てたら、
  ぱあーーーーーーーーっ て、カメがさ、
  真っ暗な中で見ていたはずなのに、ぱあーーーーーーーーーっ てカメの内側から光が出ているような気がしたんだよね。
  あの………、どういう色の光かっていうと、なんという不思議なことなんだろうと思うんだけど、
  文字にすると”白い銀色”だね。
  「白銀」。いちばん似ているものは空の星だね。私がみたことのあるものの中でいちばん似てるのは。
か:そんなにキラキラしてるの?
お:いや、ほわあーーーーーーーーーっ て感じ。ふわあーーーーーーーーーーっ て、
  多分、あの感じは、あのガーベラの花を見たときのホワーーーーーーーンに似ているかもしてない。
  もうね、ほわーーーーーーーーん ってなるんだよ。
  それを観たときに、私は直感で、「絶対。カメは死なないわ。」ってわかっちゃったの。
  絶対死なないよ、カメ。だって、今、光ってるもの。って。もう、間違いない、と思って。
  そのときに同時に感じたのが…これは、あとから言葉にしてるからちょっとクサいセリフだし、説明的だよ。
  あえて言葉にするなら、「この光が、全てこの世の存在の内にある」っていう確信だったの。
  クサくてごめんね。あえて言葉にするならそういう直感、感覚。
  光を見た瞬間、ホワーーーーーンとなって、私の内側にもあるし、石や草や…の中にもある、っていうふうに感じたの。
  で、実際カメは今もうちにいるんだけど。そのときにね、私はね、ここからは、後から思った事なんだけど
  あのときカメが、もし人間のように”死への恐怖”という概念があって、
  「オレもうダメかも」って思ったら、光っただろうか、死なずに生きただろうか、って思うの。
か:笑。
お:だから、カメは、ただ、その、生きていく方向しかなかったんだよ、あのとき。
  人間で言ったら、内臓破裂の全身複雑骨折って言われたからね。
  そのカメは、生きていく方向………、
  というか、人間が知っている「死ぬ」「生きる」っていうことを超えた「イノチ」なんだな、って。
  私は、あのカメの姿を見たときは自分の舞踏の転機で。
  あ、私、そこに向かって生きていかなきゃ……舞踏もそこに向かっていくのか…って思ったんだよ、そのときに。
  で、そこからけっこう、苦闘の日々ですよ。
  どうやるのか、それは、どうしたらいいのか、どうやってそこに向かうのか、って。
  六年ぐらい前から…今ここに来て、今、こうして話をしているってことが現実。今ここに起こってる現実だけど…。
か:踊ってるとき、たまに光ってますよ(笑)。
お:笑!
か:外からみるとね、そうみえるんだけど。
お:でもさ、それがなければさ…。それは、舞踏で伝えていかなければならない……それを…、
  舞台のときには、一人の舞踏手として、
  日常の生活においては、今、目の前にいる人に対して。ということを、一生…
  畑だって、一回雑草をとったら、二度と生えないってわけじゃないじゃない?えんえんと、畑は耕さなきゃいけない。
  だから、今まで、それを大森さんが私にやってくれていたのを、
  私は、自分で自分を畑を耕し続けるように、一生、それを手放さないように、豊かな種子を伝えていくんだ…。
  だから、舞踏をやるっていうことは、豊かな種子を運ぶっていうことさ。
  自分が「活かされている」時間の中で。
  あれは転機だったね、ほんとうに。
か;それはすごいことだ…(笑)
お:なんだろうか、あの光は。目で見えてるっていうものじゃないんだもん。具体的なカタチじゃないんだもん、だって…。
か:でも、そういう光がみえてる人ってけっこういるっていう、本とかではよく聞くけどね。
お:でも、普段はそんなにみえてるわけじゃないぞ、私だって。
  ただ、あのときは多分、私もカメも極限状態にあったんだよ。おそらくね。
か:多分、やっぱり、日常ではブロックしてるでしょ。
お:うんうん、極限状態、二人とも。カメもね。
か:そういうタイミングでもあったんじゃないの?
お:すごい体験だったんだよね、ほんとうに。
か:例えば、反対運動みたいな何か主義主張するような場で踊ったときでも、普通の公演だとしても、
  そういう「輝き」さえみせてくれたら、いいんだと思うよ。
お:それは、踊りとか、いろんなもの、踊りに関わっていない人でもいい、写真とかいろいろあるけど、
  主婦でも会社員でも、学校の先生でもなんでもいいんだよ。
  それが、全てに繋がってる 根 だろうか、根 だろう?っていう…。
  私、舞踏やってて、もう、ダメだ…、やめよう…っていうときもあったけれども…そのたびごとに思い出すのは、
  あのときみた光で。「そこを目指して行ってるはずなんだ、ここで終わっていいのか、お前」って。
  「そこを目指していくんだろ!?」って。
  それが、すごい遠くにある気がしてた。内側にもあるようで、遠くにあるようで…
  遥か彼方に向かって一生懸命に進まなきゃいけないような感覚を持ってたんだけど……
  それがね、ある日突然、ぬけてたんだよね。
か:そうなんだ(笑)。
お:いや、そこを通り抜けて行きすぎちゃったって意味じゃないよ(笑)。
  「あーーーっ!」って。「なんだよ、あったじゃん、ここに。」っていう。
  それも………カメの話と、もう一つあって、大野一雄先生…。
  私が舞踏やってて、辛い…ってなったときも、ここまでやめずにやって来れたのは カメの光、
  もう一つが一番最初に私が見た舞踏、大野一雄先生。
  ものすごい衝撃、ものすごい感動だったんだよ。その二つがいつも引き戻してくれるんだよ。
  「お前はそこに向かっていくんだろう!?」って。
  初めて大野先生の舞踏を観たときに、まあ、最近はこういうこと恥ずかしげもなく話すようになったんだけど…
  「雷に撃たれた」と思ったのね。
  そのとき私は悩み多き19歳、青少年の悩みよ(笑)よくあるさ。
  「今この宇宙に神がいるのなら、この踊りを通じてみせてくれたんだ!」って、
  そこまでいっちゃってさ。で、まあ、舞踏をやることになったんだけどさ、自然な流れでね、
  それこそ自然な流れとしか言いようがないんだけどさ。
か:笑。
お:で、大森さんに弟子入りしてから十年たった。ほんとにこの間なの。「あっ!」と思って。
  多分だけど、大森さんがこうやって、芽が出るように、種子を育てるように、育てて来てくれて…舞踏というものも
  そのように生命を運んでいるのか、って気がついたときに、
  大野一雄先生の舞踏をみたときの一瞬の感動と、十年という時が同じものだったように感じたの。
  時間とうものがないというか…。横軸の時間というものはあるんだよ、24時間、365日…。でも、一瞬の時、垂直線の時も…。
  「あっ!」っていうのは、大野先生の踊りを観た瞬間、19歳の私は助けられたし、
  この十年間も舞踏と、舞踏に関わる全ての人、こと、あらゆる時間と
  もちろん大森さん、秦さん(大森さんの奥様)に育てられたんだな…。
  「生きる」「死ぬ」っていう命じゃなくて、「イノチ」を助けられたんだな、
  育てられてきというか….で、今があるのか…って気付いたときに
  一瞬とか十年とかいう人間の概念の時間というのが、実は、そうじゃない、っていうふうに感じられたんだな、そのときに。
  信じることで芽は出るんだ。必ず出るんだ。
  まあ、それは「宇宙の星々の運行みたいじゃなーい」みたいな感じなんだけどさー(笑)。
  そういう感じで畑はさ、”人生観変わっちゃった”(笑)って、そういうことに気がつくきっかけがいっぱいあってさ。
  この、舞踏の豊かな種子を繋げていくんだな、って。
  これからは、舞踏に自分が救済されて浄化されていって…っていうことから、舞踏に返して行くっていうこと。
  それは私にできることは、良い「舞踏」をすることなんだな、一心に。
  舞台で、舞踏手としてできることって、そういうことじゃない?
  日常の生活でも色々ある。そして良い種子を繋げていくっていうことじゃない?
  時が来ると芽が出るんだな、って…。
  やっぱり、人は人を活かしていくっていうことでもあるよね。
  私たちの世代がこれからやっていく社会っていうのは
  自分たちの今までにはなかった社会の現状だったり生きて行く人たちがいる。
  そこでは、社会っていうものをちゃんと見ていかなきゃいけないな、と。
か:ペテン師にならないで、ね?
お:そう。それは、さっき鎌田さんが言っていたように、どこの場であれどのような状況であれ、その……
か:光?
お:光を手放すな!っていうこと。
か:それが一番。
お:あとのことはついてくると思うね、私は。全て。
か:私もそう思うよ(笑)。
お:全てね、全てついてくるんだよ。
か:お金のこととかもね、ちゃんとやってれば追いついてくるよ。
お:ついてくるよ。
  こういう運動をやってこう変えよう、っていう方に先に目が向いちゃうよりも
  「いや、今ここにあるから。」って、いうところから…
か:じゃないと、揺れて…自分がわからなくなるよね(笑)。
お:なるよ(笑)。
今ここにある現在という時の中に
過去も、これからの未来も同時に在る。
それは、今ここに全てを完全に内包しているひとつぶの種。
私たち一人一人のからだの内奥に宿っている種。

私たち一人一人が今ここに生かされていることそのものが
自分一人ではない
あらゆるいのちの創造。
私たちが今この生を生ききることは
今ここに生かされている私のいのちと
このいのちを育ててきてくれた、支えてきてくれた
あらゆるいのちと一体であること。
そしてここから生まれてくる新しいいのちも今ここに宿っている。
一人一人のからだの内にある。
ここまで育て支えてきてくれたあらゆるいのちと
これから生まれてくる新しいいのちと一緒に
今ここであるがままに呼吸する。

あるがままに
ひとつぶの種から芽が出る姿を観る。
『花はまた咲くことを識っているから枯れていく』
花の識っている「生」が
生きること、死ぬこと、それすらも超えた生命の流れであるならば
私たち人間の知っている「死」は「生命」を輝かすものだろうか。
善悪や生死を超えて全てを照らし出し活かす意識は
何ものにもとらわれない
私たち一人一人の内奥にある光ではないだろうか。
種は私たちの目には見えぬ土の中の生命から養分をもらい
時が来ると地上に芽吹き太陽と土の恩恵を受けて花が咲き新しい種は運ばれていく。
そして枯れていく。また新しいいのちは生まれてくる。
今ここにあるがままにいればよい
それは過去の全てでありこれからの未来を創造すること
私たち一人一人が
今ここに生かされている時の中で
いのちの種子を運ぶ
信ずる力を自らのうちに耕し続けよう。
 

大倉摩矢子






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