久保貴弘君。
春はお花見、新年会忘年会ただの飲み会・・・いつも何かのときにはみんなで遊び、一緒に飲んでいる、10年来の友達。
でも、最近はけっこうシラフでも会っている。
それは2008年。あるきっかけから、写真家久保貴弘ー舞踏手大倉摩矢子 としての共同作業が始まってから。
お互いの写真のこと、舞踏のこと、話すようになった。自然な流れだ。
舞踏ー写真の即興戦 第一弾は、2008年10月。新宿御苑だった。
そして第二弾ー
2009年6月7日(日)久保貴弘・大倉摩矢子 南新宿。
早朝の南新宿で撮影しよう。と、言い出したのは大倉。
朝、南新宿駅で待ち合わせる。久保はいつものバイクで到着。
どこかいい場所ないかなあと歩く。
路地を曲がる。
歩く。坂を登る。
「ここいいんじゃない?」
と、久保の触覚が動いたのは、とある建物。古い。いい味だ。
平日は会社か事務所かで、いくつかの部屋が使われているようだが、今日は日曜。人はいない。
「ここだね。」
「屋上行けるんじゃない?」
決まりだ。
薄暗い階段を上って行く。
太陽の光を遮る物の何もない屋上。
熱いコンクリート。雨上がりのぬかるんだ泥がところどころに溜まっている。
そのままになっている植物の鉢植え、錆びて剥がれた柵、こわれかけの椅子、ビールケース、切れた電線、転がったアンテナ。
今日はいい天気だ。
新宿の高層ビルが一望できる。
打ち合わせなし。決めごとなし。はじまっている。
舞踏と写真の即興戦。
10分経過ー20分経過ー。
お互いに、ああ、この瞬間なんだな、って感じたのは同じときだった。
かといって、最初からその瞬間だけで良かったのかっていうとそういうワケじゃない。
そこまで至る全部の過程があって、その瞬間がある。
—感情の層をたどっいって突き抜けて行くと、自分の内側の奥深いところに
すっと、すっと、落ち着くことのできる場所がある。—
撮影後、おもしろい話を久保から聞いた。
先頃、久保が巣鴨と早稲田に撮影に行ったときの話。
ふっと、
巣鴨。とか。
早稲田。とか。
浮かんでくるのだそうだ。
撮りに行こう、と思いたつと、パッとすぐにその土地へ行く。
そうすると、「ああ、今日はこの写真を撮りにここに来たんだなあ。」という出会いがあるそうだ。
今回の撮影も、お互い何も決めてなかった。
でも、「ああ、今日はこれなんだな」っていうのを二人とも同じときに感じていた。
直感。感覚。
私の場合。
例えば、感情(個人的なものであったり、情緒的であったりする感情)を例にする。
踊りのときに、感情で動いてしまうと、とてもひとりよがりなものになってしまう。
右でも左でもなく、感情や好き嫌いや善悪にとらわれない感覚。その場所がもっともっと、自分の内奥にある。
感情の層を突き抜けて、スッと内奥と繋がっている感覚。
内奥からふきこぼれるような感覚がやってくることもある。
そこでは同時に坦々と、自分を観ている感覚もある。
私が「ああ、これだな。」って感じる瞬間はこの内奥との繋がりを感じる。
気分や感情、自分の考えにとらわらていない、ニュートラルな状態であることでスッと繋がる回路が生まれやすい。
写真家久保貴弘の
直感、感覚的なものはどこから生まれてくるのだろう。
そして
この日も、二人が「今日はこれだ」って同時に感じていたということ。
舞踏ー写真に共通する感覚、さらには、あらゆるものに共通する根も観えてきそうだ。
「ニュートラル」をキーワードに、久保に話を聞いた。
大:ここに行きたい!って直感的に感じて、実際そこに行って、
そうすると「ああ、今日はこれを撮りにここに来たんだなあ」っていう出会いってさ
感覚で先にキャッチするわけでしょ、
久保貴弘の中にいる、写真家久保貴弘がキャッチしてそこにつれて行って
導かれていってそこで出会うっていうのがさ。
その、久保貴弘の中のもう一人の久保貴弘っていう存在が、
ニュートラルな位置に存在しているのじゃないかと思うんだけど?
久:多分、無意識にいるんだろうね。
意識して出そうっていうんじゃなくてさ、歩いてると出てきちゃうっていう感じだよね。
止めようと思ってないし、出てきたらそのままにしとくんだけど。
大:止めようと思ってないし、出そうと思ってないし、って感じ?
久:止めようとも思ってないし出そうとも思ってないから楽しいわけさ。
それってこう…気分が落ち込んでるとか高揚してるとか関係ないからさ、
今日はなんか乗らないなーってときでも触覚が動くときもあるし
高揚してるからって触覚が動くかっていうと動くわけでもないし、よくわからないのさ。
要するに、何か…、例えば今日はこういう人を撮りたい、って言って決めていくわけじゃない。決めないで行く。そのへん…。


—忘れて、良かったな—
久:今日の撮影で言うと、実はカラーでも撮ろうと思ってたし、モノクロでも撮ろうと思ってたし…
だから、こういう場合はカラーで撮ろうとか、こういう場合はモノクロで撮ろうとか、少しは考えてきてたんだよね…。
わかりやすく決めてかかろうとしてたわけさ。
こういうときはこう、こういうときはこう、って。
でも、恥ずかしい話、今日はカラーフィルムを忘れたんだよね。
でも、そのことが逆に、決めてかかろうとしてたのがちょっと崩れたわけ。
だから、ある意味、決めてかかろうとしたらあそこの植物のたくさんある庭っぽいところでは、
俺はカラーで撮ろうとしてたと思う。
でも、あんときは、これはカラーで撮りたかったなっていう、なんかこう、後悔というより
あー、これ、カラーで撮ったら多分イメージ通りのままで終わったから
あれをモノクロで撮った。っていうことが、もう一つ上に、自分の予想より超えたわけよ。
だから、幸か不幸か、今日はカラーフィルムを忘れてなんか良かったなー。
あれをカラーで撮ってると、多分、昨日イメージしてた範囲内で収まってしまったから
今日はモノクロしか持ってきてなくて良かったなって。
いい意味で自分の予想を偶然裏切ってしまった。
それが今日すごくおもしろかった。
—決めてると、全部を突き抜けられない。 いくつもの段階を…—
久:(今日の撮影でも)たくさん偶然がある訳じゃん。
自分でこうしようって思ってた状態のまま、
今日ちゃんとカラーフィルム忘れずに色んなことに対応できるように全部道具持ってきて
南新宿のこの場所でういうポーズで撮ろうとか。っていうのが
全くない状態でここでこう話してるから、それがすごい良かったなーって気がする。
決めてると全部を突き抜けられない訳さ、何個もの段階を。
でも、いい意味でカラーフィルム忘れました、
偶然この曲がり角を曲がりました、偶然この建物がありました、偶然この植物の庭がありました…
と、特に決めずに全部これたのがすごい良かったなあ。
こういうポーズでとか、はなから決まっててその通りやろうとすると、多分、自分の予想は超えられないから。
—「ああ、もう、何もすることできないし、何もできんなあ。」その瞬間、ポーンと連れて行ってくれてた。—
大:私はさっきの場所(建物の三階の屋上から外階段で二階の屋上へと降りられるようになっていて、二階屋上のスペースには
そのままに放置されている植物の鉢植えが沢山あった)で、階段を降りて行くなんて思ってなかったんだけど
こう、三階の屋上で対角線に動いて自然に階段を降りて来てしまったから…。
下に植物があって、そこに降りた時点でもう何もすることがないわけよ、私には。
で、何もすることないしー、何にももう、ならんなあという感じで立っていて、こう…
一回、意識が切れちゃったような感じになった後なんだけど。
そう、別に何もすることできないし、何もできんなという感じだったな。あのとき。
そうすると、靴を履いてるのに、
ただ、こう、足の裏に色んなムニュムニュと障害物や物が落ちていたり感覚が色んな物があって。
ボコボコムニュムニュ伝わってくる感じで。
それでも何も出来んなあ。かといって何をしようとすることもできんなあ、と。
—自分の意志でやろうとするよりも—
大:ああいうときに、自分の意志でやろうとするよりも
ほんとに、そこにあった植物とかと、体が近くなるという感じだよね。と、ハッと感じて。
稽古場でやっていると、ああいう、何もできんなーという状況になったときに、あるのは平面の壁と平面の床。
もしかしたら稽古場でやっていたら、あの時点で終わっちゃってたかもしれない。
でも、今日は、まわりにいろいろなものがあった。
そのときにふっと、ふっと、そこからどこかに、他者がいることで連れてってくれるという、そういう感じ。
「あー、もう、できんなあ。」の瞬間から、違うところにパッと行ってた、みたいな。うん。
久:多分、予想してない方向に向かうんだよね。多分ね。
大:自分でこうだ、って思ってたところが「できんなあ」だから。
私も、くぼっちが言っていた <決めてた範囲じゃないところ> に、「できんなあもう」と思った瞬間ポーンって行ってた。
この日、二人が同時に掴んだ手応え。
それは自分のイメージや意志、意図できる範囲から超えた瞬間だった。
決めごとなし。
予想していなかった出来事。
感覚が選び取るにまかせることで辿り着いた瞬間。
そのとき確かに なにものかにふれている。
自分の頭で決めていては見えてこない、その先。
—待つのでも、向かうのでもなく—
久:だからといって、今日は全く決めないで行こうとか、そういう方向に傾いてしまうと、
それはそれで無限に範囲を作ってしまうことになるから、そこから出ようにも出られなくなっちゃうわけさ。
だから、その間っていうの?考えない、みたいな。そういうのがニュートラルの状態。
ボーッとしてればいいのさ。
何もしようと思わない。
ただこう、カメラ持ってたりとか
何かしら撮れるような状態にしておいて
待つのでも向かうのでもなく、体をこう、動かす、みたいな。
すると何かあるんだよ。
でも、何もなくても別に何も思わない。日々、それを繰り返して行く。
今日、フィルム忘れたのは、なかなか、褒めてやりたいねー(笑)。
大:偶然じゃないんだよきっとー。
久:なるほど、カラーフィルム忘れたのはこういう理由かー(笑)。そういうのかねえ。
—そこから先は一方向だけじゃなくってたくさん行ける。その方角は自ずと決まって行く。—
久:ある意味では選べないんだよねー。
でも、そこから先は一方向だけじゃなくってたくさん行けるわけさ。
でもその方角は自ずと決まって行くのさ。
ウニュウニュウニューって。人によって色々だと思うんだよね。
触覚が動く方向ってのは人によってめちゃくちゃあるわけでしょ。
けっこう楽しめるといいなーって思うわけさ。
そこが、ストイックに、「こうしよう。」ってなっちゃうと、なんか違う。
何もしようと思わない。
待つのでも向かうのでもなく。
だからいつでもどこにでも動ける。
触覚動く。
—コインの裏表—
大:いろいろな、偶然そこで会ってるっていうこと、偶然ってくぼっちが言ってること、私には必然な気がするよ。
久:そこはコインの裏表だよ。
大:あーそうか。
久:偶然は必然、とか、必然は偶然だったり。
俺は同義語のような気がするけど。
大:私はこういう感じがするよ。
もう一人このへんで見ている自分がいるんだけど
頭の自分は、わあ。こんなことが、わあ、こんなこと!初めてだ!こんなになると思ってなかった、って、
わあ!って、なるんだけど
もうひとりの自分が
すごく冷静に坦々と全部をタアーッと観察してるのよ。
そのひとから観ると全部必然な感じがする。
で、冷静に観てて、フムフムフムって。
だけど、私は、そんな1秒先のことも予測してないから
1秒先も予測してない、パアーッ!と、行く自分と
それを全部こう、タアーッと、1秒先を予測してないことすらも観ている自分、もうひとつの感覚がせめぎあってこう…
常にいる感じがあるんだけどね、踊っているときにはね。
そういう意味で同義語っていうか裏表っていうか。別々なものではない気がする。
久:多分、俺の中でその言葉がひっくり返るときっていうのは
デジタルカメラで撮ってたら、もしかしたら、すぐ確認できるから『あ、こいいう感じか』ってなると
例えば、今日は『これを撮る為に来た、これは必然だ』って、目で見て確認できるから。
フィルムで撮ってると、現像して出てきてプリントしたときに冷静に見てみると
『これは、このタイミングでしか撮れなかったから必然だ』と思うことは結構あるかもしれない。
まあ、そうだな、時間があるよね。
大:でも、感触としては、体が確かに感じてるわけでしょ。
久:ある、ある、あるある、ある。しっかりある。
大:その感触として感じてるのはきっとその…「巣鴨だよ」とか「早稲田だよ」って言う久保貴弘が
「これだよ」って言うんだろうね。
久:なんなんだろうね。
そういうときが、おりてきている って感じなのかな。なんなんだろうね。
そのとおり行くと何かしらあるんだよね、不思議とさ。
出会うべくして出会ってる…


ニュートラル。決めてかからないってことかな。(久保)
自分の意志や意図ではなく
感覚の向くままに
出てくるものは出てくるままにしたらいい
止めないことだ
忘れたとき
何もしようと思わないとき
何もできないとき
予想を超えて
触覚動く
出会うべくして出会ってる
そのとききっと
自分の内奥に触れている
そうだ。
決めてかからなければ身の回りの世界がまるで違う感じに見えておもしろい。
photograph by Takahiro Kubo
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